岸井ゆきの、満島ひかり、伊藤沙莉 物語に奥行きを与える“タクシー運転手”たち
ドラマ『日曜の夜ぐらいは...』(ABCテレビ・テレビ朝日系)のタクシー運転手・野田翔子を演じる岸井ゆきのは、いつも弾けるような笑顔の裏にそっと「寂しさ」を忍ばせる。
乗客にざっくばらんに話しかけるも「会話とかいらないんで」と拒否され、得意の元ヤン話を披露するとドン引きされ、同級生からの久々の連絡に期待するも、美顔器を売りつけられ、セールスだとわかっていても買ってしまう。どんなに邪険にされても兄・敬一郎(時任勇気)が自分に会いに来たというだけで思わず口元が緩む彼女が、再び家族に必要とされていないという事実を突きつけられ落ち込む姿は、切なくてならなかった。
第5話における「人生っていうのは、結局信用できる人と出会うための長い旅みたいなものだと思うんですね」と言う若葉(生見愛瑠)の言葉に「私も今全く同じこと言おうとしてた」という翔子の同意は、みね(岡山天音)と彼女たちが笑うように単に「お決まりの流れ」の繰り返しのようでもあるが、どんなに期待しても悉く裏切られ続け、何かに期待することにさえ疲れ切ってしまった翔子、若葉、サチ(清野菜名)3人の心の中でずっと渦巻いていた思いを改めて言語化したような言葉だったように思う。そしてそれは、「日曜の夜ぐらいは...」とコンビニでちょっと高めのアイスもしくはスイーツを買って一息つく「私たち」視聴者の心の奥底から湧き出た言葉かと錯覚してしまうほどには、切実な言葉だった。
『日曜の夜ぐらいは...』を観ていて感じるのは、「これは私たちの話だ」ということ。それは岡田惠和脚本の台詞の端々から如実に伝えられるものであり、彼女たちの生活の様子の端々から、もしくはリアルな金銭感覚の描写から匂い立つものであると言える。本稿は特に、タクシーと運転手を演じる岸井ゆきのに焦点を置いて、作品全体を見つめてみたい。
タクシーという移動する空間は、そこを行き交う人々の人生の断片を映し、車窓越しに時代と、時に街並みの歴史をも映し出す、映画・ドラマにとって、実に魅力的な舞台装置である。例えば、伊藤沙莉がタクシー運転手を演じた『ちょっと思い出しただけ』の、マスク姿の彼女が車窓越しに見つめる、東京オリンピック直前のコロナ禍の東京。一方、『日曜の夜ぐらいは...』において翔子が運転するタクシーの車窓からは、さらに不景気と社会全体の停滞感が加速した、現在進行形の「今」が見える。本作の場合、車窓というよりは、車に乗り込んでくる人々の様子から窺い知れる「今」といったところだろう。運転手とのつかの間の会話を楽しむことも、流れてくるラジオの声に耳を傾ける余裕すらなく、「不景気ですし皆コンビニとかお弁当」を食べている人々の現在。翔子パートが示す、タクシーと人々の風景は、宝くじで大金を手にしたのに関わらず、金の気配を嗅ぎつけた厄介な家族がハイエナのようにすり寄ってくる恐怖に怯えてばかりの彼女たちの現実に、よりリアリティを与えている。