内田裕也、ロックと映画の交わる道を実践しつづけてきた男 日本映画界における功績を振り返る
映画で虚実の境を揺さぶる
内田裕也の映画づくりがピークを迎えたのが『コミック雑誌なんかいらない!』(1986年/監督:滝田洋二郎)。ロス疑惑、山一抗争、日航ジャンボ機墜落事件、豊田商事事件など1985年に起きた事件・事象を取り上げている。冒頭で内田裕也はロックミュージシャンの命=反体制の象徴である長髪を自ら切って芸能リポーター・キナメリの役に入ってゆく。ポーカー・フェイスで「恐縮です」を繰り返しながらアポなしの突撃取材を敢行するキナメリは松田聖子と神田正輝の結婚式の会場に押しかけ、ロス疑惑の渦中にあった三浦和義にマイクを向ける。日航機墜落の犠牲者の遺体という圧倒的に重い現実を前にキナメリは衝撃を受け、さらにマスコミの衆人環視の中で豊田商事会長が刺殺される衝撃的な現場を目の当たりにして激情にかられる。幾層にも仕掛けられたメタフィクション的な構成がフィクションと現実の境界を激しく揺さぶる。それまで能動的にここであらわにされるグロテスクな光景は、キナメリ=裕也の見た「Fuckin Japanese」の現実なのだ。
映画はカンヌ国際映画祭の監督週間に出品されたほか、アメリカでも公開されて国内外で高い評価を得た。このあとも映画界ではあいかわらず異色の俳優として活躍するが、自身のプロデュース作品は途絶える。久しぶりに世に問うた『魚からダイオキシン!!』(1992年)はタイトルのセンスと裏腹に、『餌食』をまるまるリメイクしたあたりにプロデュース能力の後退を感じさせた。初監督の崔洋一、ピンクから一般映画に初進出した滝田洋二郎と、あれだけ有能でフレッシュな人材をピックアップする能力に長けていたのに、今作の監督は監督経験は1本きりの宇崎竜童を起用しているのにも首をかしげる。
『共犯者』(1999年/監督:きうちかずひろ)で演じた殺し屋を最後に、60歳の坂を超えてから急速に老化が進んでからは、「シェケナベイビー」「ロッケンロール」のフレーズとともに晩年のわれわれのイメージの裕也像が定着する。俳優としてもだいたい「出落ち」のような起用のされかたで、唯一新しいイメージを引き出したのは彫師を演じた『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年/監督:荒戸源次郎)だけではないだろうか。『JOHNEN 定の愛』(2008年)で女装も披露していたのには驚いたが。
声量もなく音程も怪しくお世辞にも歌がうまいとはいえない、ヒット曲と無縁のシンガーがどういうわけか映画の世界で居場所を見つけた。拭っても拭いきれない己が個性と能力を発揮できる場として。どんな役を演じてみてもスターの華やぎをぬぐいきれない沢田研二、役を自分の裡に引き寄せる萩原健一、個を消して役に己を埋めてしまう岸部一徳、彼らと比べると内田裕也という「映画人」のユニークさはきわだっている。ロックという畑ちがいの分野からやってきて、1970年代から80年代にかけて、沈滞する日本映画をひっかきまわし、おもしろくしてくれた功績はけっして色褪せないだろう。
内田裕也の死からわずか9日後、今度は萩原健一が鬼籍に入ってしまった。ロックの神様なんて、やっぱりいないじゃないか。
■磯田勉
フリーライター。「映画秘宝」「映画芸術」などに執筆。