「閉じこめられた女性」を描き続けるソフィア・コッポラ 『The Beguiled ビガイルド』に見る変化
映画界のサラブレットと言えばフランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの名前を思い出す人も多いのでは? 映画監督の両親は言うに及ばず、ファミリーのなかで映画関係の仕事に就いていない人を探すほうが難しいほどの映画界の王族とも称されるコッポラ家。
初長編監督作『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)のヒットで一躍ガーリーカルチャーの牽引者として躍り出たソフィア・コッポラ監督は、現在に至るまで長編作品を6本発表しており、その才能で二世監督という七光りを返上しました。一連の作品には彼女しか出せない作品性があり、一貫したテーマが潜んでいます。彼女が描くテーマはなんなのかーー? それを探っていきたいと思います。
ジェンダーに“閉じ込められた”女の子たち
『ヴァージン・スーサイズ』は1970年代のミシガン州に住むリスボン家の美人姉妹の自殺を描いた物語。5人姉妹は近所の男の子たちの憧れ。厳格な両親は姉妹に普通の女の子の楽しみを与えず、末っ子のセシリアの自殺をきっかけに姉妹全員がそれぞれ自殺してしまいます。
姉妹が自殺した理由は明らかになりませんが、近隣の男の子たちが語り手として登場しているところにヒントがあります。劇中、姉妹は男の子たちの視点によって語られ、彼女たちの主観的な感情は決して語られません。男の子たちにとって、リスボン家の女の子たちは悩みや葛藤を抱える“人間”ではなく、若く、美しく、ミステリアスな“見られる”存在。セシリアの自殺によって、やっと周囲の男の子たちは、彼女たちがリアルな人間だと気づきます。
『マリー・アントワネット』(2006年)も同じく、ヴェルサイユ宮殿に“閉じ込められた”王妃の悲劇を綴った物語。跡継ぎを産むという王妃としての役目をようやく終えた後、自分らしさに目覚ていくマリー・アントワネット。ヴェルサイユ宮殿の窮屈な伝統やしきたりをかなぐり捨てて、プチトリアノン離宮で村を作ったり、演劇を開催したり、自由なファッションを身につけたりと、自分のクリエイティビティを発揮し自分らしさを探求します。
けれども、自己に目覚めたマリー・アントワネットがたどる運命も『ヴァージン・スーサイズ』と同じ“死”。リスボン姉妹もマリー・アントワネットも、社会や親からは従順で純真無垢である“少女性”を、男性からは“性的対象物”であることを強いられている存在。人間が成長するために必ず通過する、セクシュアリティやアイデンティティの目覚めを無理やりジェンダーに閉じ込められたらどうなるのかーー。この2本の作品を通して、“女の子であること”の抑圧をコッポラ監督は描いているのではないでしょうか。