>  > 『パーティで女の子に話しかけるには』評

19歳の女優エル・ファニングはすでに完成されている 『パーティで女の子に話しかけるには』での存在感

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 ニール・ゲイマンといえば、『コララインとボタンの魔女』や『スターダスト』が映画化されている、幻想小説の名手だ。彼の短編集「壊れやすいもの」の中に収録されている一編「パーティで女の子に話しかけるには」も例外なく、それら幻想小説の部類に入る物語で、回想録のテイストで綴られていた。

 30年前に、友人のヴィックとパーティに忍び込んだ主人公のエンが、何人かと会話をし、その異様な空間から脱する部分までを綴った、ペーパーバックでおよそ20ページほどしかない短編小説なのだ。それに独自の解釈を加え拡張し、まったく新たな物語として紡ぎ出されたのが、今回の映画版『パーティで女の子に話しかけるには』なのである。

 しかもそれを、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェルが手掛けたとなれば、一筋縄ではいかない作品に様変わりするのも納得である。原作に登場したパーティの描写、ニュアンスとして表現された異星人の姿を、より奇抜なものに具現化していく。カラフルな衣装を身にまとった、奇特なキャラクターたちが顔を並べることで、序盤に主人公が紡いでいたような70年代の青春ドラマを一気に叩き崩す。

 そして、原作では描かれることのない“パーティの後”の物語が、実に想像力に満ち溢れ、かつミッチェルらしさを全開にさせて描かれていく。まずは物語のキーとなるパンクロックの存在だ。ニコール・キッドマンが監督の前作『ラビット・ホール』とは180度違う風貌で登場したと思いきや、主人公のアレックス・シャープも、ヒロインのエル・ファニングもとびきりの“パンク”を披露していく。

 もっとも、そのアレックス・シャープの持つ背景の描きこみの弱さや、異星人たちの個性の強さによって“パンク”というものの存在意義が薄まってしまっている印象も否めないが(たとえば先日の東京国際映画祭で上映されたエイサ・バターフィールド主演の『ハウス・オブ・トゥモロー』のように、明確に現状から飛び立とうとするような描写も少ない)、あらかじめパンクという音楽が当然のように存在し、異星人たちの特殊さと対比的に描かれているという世界観は、あたかもミッチェルらしい世界に見える。

 とりわけ、主人公がエル・ファニング演じるザンと出会い、過ごしていく48時間の疾走感が凄まじい。まずパーティのシーンでのさらりとしたボーイ・ミーツ・ガール。所属するコロニーの部屋から飛び出してきたザンを追って、服を切る場面のインパクトから、その直後のキッチンでのキスシーンと、建物を出てからのくだり。なかなかのインパクトで攻め込み、たちまちこの映画をエル・ファニングが独占しはじめる。

 翌朝の2人が飛び跳ねながら街を散策する場面は、ここだけを切り取れば、SF要素も、パンク要素も感じない、純然たる青春ラブストーリーの様相を保ち続けることに、ときめかずにいられない。そしてエルに独占された物語が終盤に進むにつれ、ミッチェルの紡ぐぶっ飛んだストーリーを観客に納得させるために丸め込む筋書き。

 そして地球人と異星人との恋模様ともなれば、切ないエンディングが待ち受けているのはお約束だ。結局劇中ではその具体性が明かされない“コロニー”と彼らの掟を残したまま、そんなことは露知らずと、エンとザンが全宇宙を巻き込んだ、2人だけの愛のコロニーを生みだす瞬間には、得体の知れない多幸感で包まれてしまう。もはや、呆然としてしまうほどに巧く丸め込まれてしまうのだけれど、そのトリッキーさこそがこの映画の魅力なのかもしれない。

      

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