二分された“東京”と“地方”は何を意味する? 『ここは退屈迎えに来て』が描く人々の心の事情
それはラストシーン、ただ一人椎名の磁場を離れた人物が登場する箇所である。その人物は、携帯電話にかかってきた椎名の着信を無視して、ビルの屋上で東京の景色を独り眺めている。視線の先にあるのは、本作で散々登場した、ありふれた日本とは異なる光景だ。この場所において、椎名というイメージはもはや必要ない。
ただ、そこでつぶやかれる「超楽しい」ということばは、新しく変貌を続ける街を象徴する、東京スカイツリーが屹立する街並みを眺めながらも、なにか虚ろに響き、空へとかき消されていく。その一抹の寂しさからは、東京はそんなにも良いものなのかという、ささやかな疑念を観客に与えている。
大都会とはいえ、世界的な視点で見ると、そこは極東の島国の人々が密集する場所に過ぎず、真に進歩的な場所かと言われると頷きづらい。本作の地方在住者たちが期待するような何か特別な力とは、そこに住む一握りの人間しか持ち得ないものなのだ。その状況は、本質的には地方も都会も変わらないはずである。椎名というイメージが実体の無いものだったように、そこは魔法の場所というわけではない。
夏目漱石の小説『三四郎』(1908年)では、熊本から上京する汽車のなかで、希望に燃える主人公が、洋行し世界を見ている人物に「日本は滅びるね」と言われ衝撃を受ける場面がある。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中の方が広いでしょう。囚われちゃだめだ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実熊本を出た心持ちがした。(『三四郎』より抜粋)
本作での東京と地方という二分は、地理的な問題というより、「独立心」と「依存心」という、心の象徴として機能している。東京に住んでいても依存心が強い人はいるし、地方に住んでいても独立した心を持っている人はいる。その真実を映像と役者の演技によって集約させた、文学的な含みを感じるバランスのとれたラストシーンには、監督や脚本家の底力が感じられた。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『ここは退屈迎えに来て』
全国公開中
出演:橋本愛、門脇麦、成田凌、渡辺大知、岸井ゆきの、内田理央、柳ゆり菜、亀田侑樹、瀧内公美、片山友希、木崎絹子、マキタスポーツ、村上淳
監督:廣木隆一
脚本:櫻井智也
原作:山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫)
配給:KADOKAWA
(c)2018「ここは退屈迎えに来て」製作委員会
公式サイト:taikutsu.jp