イタリアの鬼才が放つ、リアルなおとぎ話ーー『五日物語』の特異なタッチが伝えるもの

『五日物語』特異なテーマを考察

 ロッセリーニ、ヴィスコンティ、デ・シーカ、フェリーニ……。イタリア映画史を織りなしてきた「巨匠」の名は枚挙にいとまがないが、その最も若い世代として国際的な名声を獲得し続けているのがパオロ・ソレンティーノ、そしてマッテオ・ガローネだろう。二人は08年のカンヌ映画祭のコンペ部門に揃って出品し、ソレンティーノの『イル・ディーヴォ』が審査員賞、ガローネの『ゴモラ』がグランプリを獲得するというイタリア勢の大躍進を見せつけたことでも知られる。

 煌びやかな映像美と人生の悲哀を織り交ぜて幅広い世代に訴求力のあるのがソレンティーノだとすると、ガローネはもともと画家だったという側面もあってか、かなり特殊な語り口で自己の内面に映った鮮烈なヴィジョンを具現化しているように思える。その才能は『ゴモラ』、前作『リアリティー』(こちらもカンヌでグランプリ受賞)と予測不能の進化を遂げてきたが、最新作『五日物語』はカンヌでは無冠に終わったものの、その野心的試みはかつてないほど壮大に膨らんだ。さながら前2作を引き継ぎ、いや捕食して、その胃袋の中で新たな生命体を作り出してしまったかのようなダークな魅力に満ち満ちている。

ファンタジーからリアリティーを掘り起こす

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 その原作は17世紀に書かれた民話集「ペンタメローネ(五日物語)」。ガローネ監督はそこに収録された51話の物語の中から3人の女性たちをメインに据えた3つの王国の物語を抽出。ゴヤの版画集「ロス・カプリチョス」や古典ホラー映画『血塗られた墓標』などからインスピレーションを受けながら、この奇妙な世界観を非常にリアリスティックに描き出していく。

 面白いことにこの3つの物語には何らかの世界観の連なりがある。ここで『ゴモラ』を観たことのある人ならば、この映画が巨大な犯罪組織の末端に生きる者達の複数の目線によって「連続性のある世界観」を紡ぎ出していたことを思い出すかもしれない。

 ガローネは『ゴモラ』について「まるでダークなおとぎ話のようだった」とも語っている。たしかに硬質なドキュメンタリー・タッチで突き進む先に皮肉な運命が待ち受けている様は、ある意味、大人のおとぎ話と取れないこともない。そして次なる『リアリティー』でも、TVのリアリティー番組と現実世界との区別がつかなくなっていく男の暮らしが痛烈なファンタジーへと昇華されていった。つまり「リアリティー→ファンタジー」という流れ。

 一方、今回の新作『五日物語』ではそれが反転している。幕を開けた瞬間からおとぎ話(ファンタジー)の世界観が広がるものの、しかしその描写は極めてリアルなカメラワークや内面描写によって織り成され、見ている私たちはいつの間にかそこから、何ら現実世界と変わらぬリアリティーに満ちた本質を掘り起こしてしまうというわけだ。

 では具体的にはどのような物語が横たわっているのか。一つ目はなかなか子供を授かることのできない女王が、水中に住むドラゴンの心臓を食らうことで翌朝には息子を産み落とす。だがその子が成長して離れていくにつれ、母親としての嫉妬が芽生え、思いがけない結果をたどることになる。二つ目は老婆の姉妹の物語。その片方が不思議の森にて若返りを遂げたことで、残された方には嫉妬と羨望、執念の相まった複雑な感情が芽生えていく。三つ目はお城の外の暮らしに憧れる王女様のお話。結婚が決まれば親元から離れられると思いきや、選ばれた相手はなんとオニ。なんとかその運命から逃れようとするのだがーー。

 怪物もいる。不思議な魔法も存在する。登場人物も外面的には絵に描いたようなおとぎ話の住人である。だが各々の胸には、現実世界の人々となんら変わらぬリアルな感情が満ち溢れ、徐々に肥大化していく。これらリアリティーとファンタジーが入り混じったあらゆる要素が、全く同じキャンバスにて整合性を持って同居していること自体が不思議でならないし、ガローネはきっと『ゴモラ』と『リアリティー』という前2作があってこそ初めてこのような特異なタッチを獲得できたに違いない。

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