『劇場霊』が切り拓くJホラーの新境地ーー不条理性に根ざした恐怖演出を読み解く
もはや、Jホラーはホラー映画というジャンルのひとつに留まるものではなく、日本映画のスタイルとして確立されている。基本的には98年の『リング』『らせん』から始まる正月第二弾興行の二本立てとして始まり、02年に『仄暗い水の底から』や03年の『呪怨』と続き、04年から始まったJホラーシアターにつながるというのが王道ルートであろう。とはいえ、Jホラーシアターが始まってからは、それまでのような大ブームが巻き起こらず、かえってホラーが苦手という観客を増やしてしまった印象もある。しかしそれは、日本人が最も怖れているものを描き出すことに成功したともいえるのではないか。
Jホラーに具体的な定義はないものの、これまでのホラー映画にあったような、ショッカー描写やグロテスクを極力排除して、どこか湿っぽい不気味さと、かつ何故襲われるのかが判らない不条理さを、ある種の因縁にも似た物語に乗せて描くそのスタイルは、日本古来の、まるでラフカディオ・ハーンの『怪談』まで遡っているかのような純然たる「恐怖」を追求しようとしている点で共通している。それは、死者の哀しい欲求が生者にとって恐怖としてしか捉えられないというパラドックスによって生み出されるドラマであり、ある意味では日本の宗教観に似ている。これをハリウッドでリメイクしたところで、到底再現のしようがなかったことは言うまでもない。ホラー映画ほど、その国の宗教観が反映されている映画はないのである。
そもそも、怪談的な恐怖というものは科学的に証明しようがない。心霊スポットや幽霊がいるといった情報によってもたらされる先入観から、脳が錯覚を引き起こしているものであって、それによって体験する、恐怖感や気味の悪さというものは、映像として具現化することは極めて難しい。それゆえ、映画でそれを実現するとき、必然的に目に見える物体(=幽霊などの恐怖の対象物)を置く必要性が出てくる。それが『リング』の貞子や『呪怨』の伽倻子のように登場人物に迫ってくるようなアメリカ的な方法論で恐怖を生み出すこともあれば、『死国』の莎代里のように日本の文化に素直に即したタイプのときもある。もっとも、それらは単なる記号でしかなく、『劇場霊』においては一体の人形がその役割を担った。
人形師の男が作り出した一体の人形によって、彼の娘が変死する場面からこの映画は始まる。彼はその人形を破壊するが、残ってしまった頭部だけが、巡り巡って20年先の、ある舞台演劇の小道具として採用されてしまうことから始まる惨劇を、これまでのJホラーの形式を踏襲しながらも、どこかヨーロッパ製ホラー映画のにおいを漂わせながら描き出している。舞台のために劇場に集まった、若く美しい女性たちに代替品の身体で迫る人形が放ち続ける絶望的な欲求は、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』を想起させ、またクライマックスで訪れる壁に移る影から恐怖の接近を予感させる演出はカール・テオドール・ドライエルの『吸血鬼』そのものである。
もっとも、この映画で驚嘆すべき点はそれだけではない。『劇場霊』がどういう映画か説明して、と言われたとき、おそらく「人形が動く映画」という単純明快なプロットでしか説明ができないのである。これは『呪怨』が「ある家に関わった人たちが襲われる映画」として説明できるほど単純でありながらも、突き詰めてしまえばあまりにも長い物語として説明しなくてはならないことに対して、徹底的な無駄を排除したことである。島崎遥香演じる主人公が女優を志した動機や、事件が起こっても中止されない舞台の重要さなどは、決して明確に描かれることなく、ただ舞台のヒロイン争いがあって、人形が動くという最低限度の設定のみで映画を動かしているのである。もちろん、何故人形の頭が巡り巡ってきたのかの説明も、不条理のままなのである。