『AKIRA』クライマックスは本当に“意味不明”なのか? 映画版にはない、単行本の台詞から読み解く

『AKIRA』は本当に“意味不明”なのか?

 大友克洋が原作・脚本(※)・監督を手がけたアニメーション映画『AKIRA』(1988年)が、2026年7月18日(土)14時から、NHK Eテレにて放送される(同年1月3日以来の再放送となる)。※脚本は橋本以蔵との共作。

 原作は、1982年から1990年にかけて、「ヤングマガジン」(講談社)にて連載されたSF漫画の金字塔。

 物語の舞台は、2019年の「ネオ東京」――1982年(映画では1988年)、関東地区で新型爆弾が炸裂し、その9時間後に第三次世界大戦が勃発。戦争により一度滅んだ世界は、再び「建設」を始めていた。

 主人公は、暴走族のリーダー・金田。職業訓練校に通う「健康優良不良少年」だが、ある夜、旧市街の高速道路を暴走中だった彼らは、老人のような顔を持つ不思議な子供(タカシ)と遭遇する。タカシは自らの“力”によって姿を消すが、そのとき負傷した金田の仲間・島鉄雄は、軍に連れ去られてしまう。

 鉄雄の行方を追う金田は、その後、反政府ゲリラの一員であるケイという少女と出会う。そして、タカシと同じような超能力を持つ子供たち(彼らの実年齢は40歳前後と思われるが、本稿では「子供」として話を進めていく)の存在を知り、さらには、世界を再び破壊しかねない謎の少年「アキラ」をめぐる争いに身を投じていくことになるのだったが……。

物語の最後が意味不明?

 これが原作の『AKIRA』の序盤の展開であり、映画も、おおむね似たような形で進行していく(「ミヤコ教団」を率いるミヤコや、鉄雄の恋人・カオリの設定など、細かい部分での違いはいくつもあるが)。

 なお、前回テレビで放送された際には、SNSを中心にかなり話題になったのを覚えている方も少なくないかと思うが、「やっぱり凄い」という絶賛の声が大半ではあったものの、なかには、「最後がよくわからない」という批判的(?)な声もあった。

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 たしかに、映画も、原作も、クライマックスでは、派手な都市の崩壊が描かれる一方で、主要キャラたちによる抽象的・観念的なイメージの断片が次々と織り込まれているため、わかりにくいといえば、わかりにくい。だが、「SF映画/漫画のクライマックス」としては、どちらかといえば“よくある展開”ともいえ、そういう意味では、むしろ“わかりやすい最後”であるといえなくもないのだ。

※以下、『AKIRA』のネタバレを含みます。映画および原作を未見・未読の方はご注意ください。(筆者)

映画と原作のクライマックスを解読

 まずは、映画のクライマックスだが、こんな感じだ。

 軍の施設で偶然“力”を発現させた鉄雄は、金田たちとも軍とも対立することになるのだが、最終的には、“力”を制御できずに、肉体を膨張させ始め、封印されていた「アキラ」を目覚めさせてしまう。ちなみに映画のアキラは、肉体を持たない精神的な存在なのだが(ホルマリン漬けの臓器として分解されている)、このとき、巨大な光のエネルギーが生じてしまう。

 覚悟を決めたタカシたちは、すべてを飲み込もうとする光のエネルギーの外(そと)に金田を逃がすことには成功するのだが、そのかわり、アキラとともに、新しい宇宙へ旅立つことになる(光は徐々に収縮していき、金田の手の中で消えていく)。

 生き残った金田は、崩壊した街の瓦礫の山に立ち、ケイたちと再び未来に向けて歩み出す(鉄雄は、新しい宇宙の生みの親になったとも、アキラたちとともに新しい宇宙に旅立ったともいえる)。

 一方、原作でも、鉄雄が自らの力を暴走させて、それを制御できずに自滅していく、という展開は同じである(金田は膨張を始めた鉄雄の肉体の中に取り込まれてしまう)。違うのは、原作のアキラは肉体を持った(だが、自我が崩壊している)少年だということと、そのアキラが、心を取り戻し、かつての仲間たち――タカシ、マサル、キヨコらとともに、鉄雄の暴走を止めるために、巨大なエネルギー(光球)を生じさせる、というところだろうか。

 2つの巨大なエネルギーの衝突によるカタストロフィ(大崩壊)のあと、鉄雄を含む超能力を持った子供たちは、金田とケイにすべてを託し、この世から去っていく(金田曰く「みんな行っちまった…」)。彼らが新しい宇宙に旅立ったのか、より高い次元の存在になったのか、完全にこの世界から消滅してしまったのか、それは誰にもわからない。

 しかし、(単行本化の際に描き下ろされた)エピローグにおいて、金田は、瓦礫の街に突然現れた国連の監視団に向かって、「アキラはまだ俺達の中に生きてるぞ!」と啖呵を切るのだ。この台詞に、何もかもが集約されているように私は思う。

「アキラ」とは何か

 では、その金田がいった「アキラ」とは何か。あらためていうまでもなく、それはアキラという少年の個人名ではないだろう。それは、使う者によって善にも悪にもなりうる巨大な力の象徴であると同時に、自分たちを取り込もうとする大人たちに対する、子供たちの抵抗の意志の表われだ。

 思えば、『AKIRA』の前日譚ともいえる『童夢』(1980年〜1981年)でも、大友克洋が描いたのは、閉ざされた空間(巨大団地)の中での「子供と大人の対立」であった。むろん、前者が象徴するのは、“いまだ何者でもないことの自由”であり、後者が象徴するのは、さまざまなルールに縛られた“社会”である(ちなみに、『童夢』には、「チョウさん」という老人が“事件”の黒幕として登場するのだが、同作において、社会の周縁にいる「老人」は「子供」と同義である。ならば、同作で「大人」や「社会」に相当するものは何かといえば、それは、不可思議な現象を前にして何もできない刑事たちや団地の他の住人たちであり、超能力を持った少女・悦子は、「大人」たちが何もできないがゆえに、チョウさんと戦うことになるのだ)。

 いずれにせよ、こうした、自分たちを取り込もうとする見えない力に抗う子供たち――その中心となるのは、本来は落ちこぼれであるはずの暴走族の不良少年だ――に共感できるからこそ、『AKIRA』という物語は、(漫画も、映画も)いつの時代でも、若者たちの心に響く普遍的な作品になったのではないだろうか。

 なお、いまの時点では詳細は不明だが、大友克洋が設立した「OVAL GEAR animation studio(オーバル・ギア アニメーションスタジオ)」にて、新たな『AKIRA』の映画化プロジェクトが進行中なのだという。どうやら今度の作品は、原作に準拠したストーリーになるようであり、何度でも甦る『AKIRA』の“力”に、期待したい。

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