第175回芥川賞候補5作品を徹底解説 VR空間での交流描く作品から、不眠症的リアリズム小説まで

2026年7月15日(水)、第175回芥川賞の受賞作が発表される。今回の候補作に選ばれているのは、以下の5作品である(著者50音順)。
・小砂川チト「ゾンビ回収婦」(『群像』5月号)
・鈴木涼美「悪い血」(『文學界』6月号)
・仁科斂「丹心」(『新潮』4月号)
・村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」(『文學界』5月号)
・八木詠美「アンチ・グッドモーニング」(『文藝』春季号)
3度目の候補作入りとなった小砂川チト氏と鈴木涼美氏がベテラン勢であるいっぽう、残りの三氏は今回が初めてのノミネートとなっている。
これから候補作の見どころを順番に紹介していきつつ、ラストで私なりの受賞作予想もしてみようと思う。
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小砂川チト「ゾンビ回収婦」(『群像』5月号)
〈理不尽なかたちで奪われたから、だからわたしも奪い返してやったんです、あいつの仕事を。そうです、あれはきっとわたしなりの意趣晴らしで、腹いせ、だったのだと思います。/そのことのなにがわるいというんですか?
わたしはただ、自分のささやかな持ち場を、しずかに守り続けたかっただけだったのに。それをどうして――どうして、そんなちっぽけなねがいさえ連中は、わたしから奪っていったんでしょう? AIにもできる仕事を、わたしはそれでもやっていたかったんです。〉
先にも紹介したとおり、今回が3度目のノミネートである。第65回群像新人文学賞を受けたデビュー作の「家庭用安心坑夫」(2022年)、そして次作の「猿の戴冠式」(2023年)と、著者がこれまで文芸誌に発表したすべての長編が芥川賞候補となっている、という点はあらためて強調しておきたいところ。
AIの普及により仕事をクビになった「わたし」は、とあるVRゲームに入り浸り、終末世界のホテルのバックルームで来る日も来る日もゾンビの死体を回収する「ゾンビ回収婦」になる。「わたし」が「アラスカ」と呼ぶ心優しきゾンビそのほかとの交流をつうじ、この仮想空間の、あるいは世界の誕生の秘密が次第に明らかになってゆく。
著者はデビュー作以来、人ならざるモノとの魂の交流というテーマを一貫して描いてきた。デビュー作ならマネキン人形、次作なら猿がそれに当たるが、本作ではゾンビやNPC、クマのぬいぐるみ、AIなど、言ってしまえばVR空間を構成するすべてがある種「モノ」であるのだから、その交流の度合いは極点に達している。なんでもありの仮想空間が舞台だからこそ抽象度がかなり高く、作中で何が起きているのかを容易に理解させてくれない部分があるのは事実だが、想像力というものの、いままで使っていなかった部分を使う体験をそれぞれの読者にもたらしてくれる、唯一無二の一冊であると思う。
鈴木涼美「悪い血」(『文學界』6月号)
〈一刻も早く血液を取り戻さなければならない。さらに深いところへ私は階段を降りていく。鼻の奥に柔軟剤と消毒液の匂いを残したまま、血液の生臭い臭いを鼻で探すように足を速める。一段足をおろすたびに、サンダルのビジューは足の同じところに食い込んで、その痛みを避けるように私はすぐ次の足へと体重を移動させていった。〉
こちらも3度目のノミネートである。過去には「ギフテッド」、「グレイスレス」(ともに2022年)が2期連続でノミネートされて話題を集めたが、今回新作が久々の候補入りとなった。
四十を手前に「脇の甘い避妊」によって望まぬ妊娠をしてしまった「私」の迷惑や躊躇いが描かれる。そして「私」は、妊婦をとりまく環境の耐え難い「ダサさ」や、自分の「どこまでいっても退屈で愚鈍な女体でしかない」身体を痛感するうち、検査のために病院に残してきた「管四本分の血液」を取り戻しに向かうことを決意する……。
「私」が「日蔭と日向の境目」をゆく冒頭に象徴されるとおり、光と闇が生むコントラストが散りばめられた小説だ。それはたとえば、「私」が「一晩中」歩き回るという奇行に及ぶいっぽう、「明け方」に彼女を迎えに来る友人が、漢字こそ異なるが「朝」を連想させる音をもつ「麻子」という名前に設定されている点にも顕著だろう。重力に身を委ねるように、階段を下へ下へと降りる現在時の「私」の歩みが、「酷い時期」や「悪い時代」があるという彼女の人生における過去の男たちとの関係や、友人の死の記憶への下降を誘う、という構成が巧み。「私」は自身の人生を「因だけがあって果のないような、罪だけがあって罰がないような私の人生」だというが、そうした「私」の自覚をある意外な人物の言葉が救済する場面が印象に残った。ある長い一夜を描く、きわめて著者らしい作品であり、「どちらにせよ、夜はまたくる」という、結びの一文は力強い。
仁科斂「丹心」(『新潮』4月号)
〈前世播いた種のように本や仕事が人の目に触れてあらたな匍匐茎が伸びてゆく。最近そうした根を地上で張っていく半-遊牧的植物の研究をしていたので自然な喩え方だった。根を新たに打ち込むのは、時間もコストも、地球への負荷も莫大すぎる。人類は、すでにあまりに多くのものを地球に打ち込んだ。これ以上徒に打ち込まなくとも建築は既存のタテモノをヨコに伸ばしていくことで存続できる〔……〕。〉
2024年に「さびしさは一個の廃墟」で新潮新人賞を受賞した著者の第二作が、今回初の芥川賞候補作入り。小説家デビュー以前から、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』の英訳(2021年)を行なうなど、多方面での活躍が知られている著者である。
物語は、磯崎新を師匠と仰ぐ建築学教授・鹿野川航が「Q」と名乗る謎の人の依頼により、中国・寧波の廃墟を美術館に改修するプロジェクトを請け負うことから始まる。現代中国には「爛尾楼」と呼ばれる、骨組みの段階で工事の停止した建物が数限りなく乱立しているのだという。こうしてプロジェクトのために中国に渡った鹿野川の指導学生の「レンくん」が、調整作業のなかで行なう現地の人々と交流が描かれる。
アンビルドという着眼点や、鹿野川/レンくんの師弟関係の構図などからは、九段理江『東京都同情塔』(2024年)や、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(2025年)といった近年の芥川賞受賞作とのつながり自然と連想される。タイトルの「丹心」という語は、作中で紹介される〈人生自古誰無死 留取丹心照汗青〉(どうせ人間は死ぬんだから、せめて生きているうち、まごころを以て歴史を照らそう)という詩から来ているらしい。が、そこで「歴史」というテーマを掲げるいっぽう、本作の最大の特徴は、冒頭、鹿野川の理論として示される「半-遊牧的植物の匍匐茎」のように横滑りする細部にこそある。そこで展開される建築論や中国文化論が味わい深い。
村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」(『文學界』5月号)
〈風は止んでいるけど、底冷えがきつい。コートの中はまだ温かい。おみやげみたいだ。黒野田さんに会おうと思ってやってきて、でもけっきょく会えなかったのが寂しい。久しぶりにだれかとまとまった時間お話しして楽しかった。反動で少しつらい。あのひとが娘さんで、そのお父さんがソリティアおじさんで、思っていた以上に知らない人生で、なんなんだ、人生。なんなんだ、と心で繰り返しながら暗い道を歩く。〉
著者の文學界新人賞受賞作、すなわち、デビュー作がいきなりの芥川賞候補作入りである。今回の受賞のいかんに関わらず、今後のさらなる活躍が期待される著者であるだろう。
主人公は、京都にある味噌屋の直販店で働く「わたし」である。ある朝、職場に行くと、定年まで仕事をサボってずっとソリティアばかりしていた「ソリティアおじさん」こと黒野田が、着衣着火によって急逝したとことを聞く。その黒野田の「最後の愛弟子」だったという「彼氏」が通夜式に参列できず、もろもろあった結果、「わたし」が葬儀に参列することになるのだが、そこで黒野田の娘・琴美と交流したとをきっかけに、知られざる「ソリティアおじさん」の「人生」が少しずつ浮かび上がってゆく。そして、それはひるがえって「わたし」自身の人生について考え直すことを促すのであった。
というふうに、ひとには職場での姿からは想像できないような「人生」が存在する、という普遍的な、けれども、忘れがちな事実を思い出させてくれる一編である。しいて言えば、鍋倉夫のマンガ『路傍のフジイ』(2023年〜)っぽい。作中の言葉によると、ソリティアの必勝法は「手詰まりになったら「もとに戻す」ボタンで巻き戻し」てしまうことだという。むろん、人生にその「巻き戻し」は通用しない。人肌を感じさせる京都弁で語られる、ウェルメイドないい話なので、広く読まれるといいと思う。
八木詠美「アンチ・グッドモーニング」(『文藝』春季号)
〈なんだよ、これ、と走りながらわたしは切れ切れに考えた。参加表明をした覚えもないゲームでどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。というかどうして誰も怒らないのだろう。なんでみな黙って従っているのだろう。自分も含めて。〉
太宰治賞を受賞したデビュー作「空芯手帳」(2020年)が世界26ヵ国で翻訳され、さらに『休館日の彼女たち』(2023年)で河合隼雄物語賞を受賞するなど、さまざまに注目をあつめてきた著者の新作が、初の芥川賞の候補作入り。
8ヶ月以上にもわたり不眠が続く「わたし」は、胡散臭いコンサルあがりの社長によって考案された「健幸」な経営を掲げる食品メーカーの広報部に勤めている。感染症の流行に伴うリモートワークの広がりは、「わたし」を出社の義務から解放するいっぽう、プライベートな時空間でも社内チャットや電話への対応を求められるなど、仕事と生活の壁を壊すことにも繋がっていた。そうしてロクに眠れぬ日々が訪れた結果、研修と称して見せられる動画(録画)内の講師と会話が成立するなど、次第に「わたし」の現実感は喪失されることになる。そして、思考の鈍った「わたし」の前に現れた悪魔的存在は、不眠解消と引き換えに「魂」を差し出すように迫ってくるのだった……。
不眠症的リアリズムとでも呼びたくなる筆致が魅力的である。というと突拍子もない作品に聞こえるかもしれないが、心配は無用である。本書のメッセージは明らかだ。眠りや夢を奪われた「わたし」の前にあるのは、過酷な労働や凄惨な虐殺といった目を覆いたくなるような現実だけである。そのような現に在る理不尽や暴力が野放しにされているにもかかわらず、それを表面的に取り繕うように「健康」や「感謝」、「ウェルビーイング」、「ポジティブ」などが「グッド」な語彙として称揚される現代に対して、強烈な「アンチ」を突きつける作品である。
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受賞作予想、はっきり言って今回はとてもむずかしいのですが、私は小砂川チト氏の単独受賞予想としておきます(ちなみにその次は八木氏、仁科氏の順にありそうだと思っています)。




























