【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第四回:外地からの帰国者たち
赤塚不二夫、ミッキー・カーチス、浅丘ルリ子……それぞれの戦争体験とは? 「外地からの帰国者たち」の生活

浅丘ルリ子:スター女優への道の原点は南国の収容所
浅丘ルリ子(本名・浅井信子)/女優
・1940年7月2日〜
・1945年の年齢(満年齢):5歳
・1945年当時いた場所:タイ バンコク市

浅丘ルリ子の自伝『私は女優』(日本経済新聞出版社)には、興味深い記述がある。幼児期の曖昧な記憶ながら、時の首相であった東條英機から頭をなでてもらったというのだ。彼女の記憶が正確ならば、1943年、場所はタイでのことだ。
海外からの引き揚げ経験者の中でも、浅丘は少しめずらしい経歴の持ち主といえる。生地は満洲帝国の新京(現在の中華人民共和国長春市)で、父親の浅井源治郎は大蔵省の官僚を経て、満洲帝国経済部大臣・韓雲階の秘書官を務めていた。源治郎はやなせたかしの父の柳瀬清と同じく、上海の東亜同文書院(日本と清国・中華民国の交流を目的に設立された学校)の卒業者だ、白人国家に対抗してアジア人の連帯を唱えるアジア主義を掲げた同校は、多くの外交関係者を輩出している。
浅丘の一家は、1943年春に新京からタイのバンコクに移る。東南アジア諸国の中でタイは唯一、戦前から独立を維持しており、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発して以降、日本と協調する枢軸国の一員となっていた。もっとも、一方では日本に対する抵抗運動も存在し、源治郎はタイで発行されていた中国語新聞の『中原報』を通じて、現地の華僑による抗日活動を抑え込む工作に関与していたようだ。
同じ1943年11月には東京で「大東亜会議」が開催される。日本を中心に、タイ、満洲帝国、中華民国南京政府(汪兆銘政権)、イギリスからの独立を唱えるインド国民軍ほか、日本の支配下、あるいは日本と同盟関係にあるアジア各国の代表者による首脳会議だ。この準備として、東條英機は5〜7月にタイを含めた東南アジア各国を歴訪しており、冒頭の浅丘の記憶はどうやらその時のものらしい。
タイでの浅丘の生活は異国情緒に満ちたものだった。家は二階建ての白い洋館で、庭にはヤシやバナナが生い茂り、色とりどりの花が咲いていた。満月の夜には祭りが行われ、庭先を大量のフルーツで飾り、民族衣装に身を包んだダンサーや楽団が、エキゾチックな舞踊や音楽を次々と披露するのをうっとりと眺めたという。
南国の穏やかな生活は、1945年8月15日の終戦を機に一変する。浅丘の一家は、上陸してきた連合軍によって、バンコク西部のバンブアトンの収容所に抑留された。ただし、施設に塀や鉄条網はなく、出入りもわりと自由で、米、野菜、フルーツ、肉や魚といった食料も比較的に豊富だった。収容所内では不安な抑留生活を送る人々の慰安のため劇団が結成されると、幼い浅丘も舞台に立ち、『私は女優』にはこの経験が女優として芸能界に足を踏み入れる原点になったと記している。
1946年夏に日本への引き揚げが始まるが、浅丘の一家が乗ろうとした船には急遽、要人が乗り込むことになり、次の便の船に乗ることになった。ところが、先に出航したその船は出航後に沈没してしまい、浅丘の一家は紙一重で助かる。

浅丘はもう一冊の自伝『咲きつづける』(主婦の友社)で、もしタイに行かず満洲に留まっていれば「私は中国残留孤児になっていたかもしれません」と述べている。引き揚げ前に陰惨な経験をせずに済んだのは、タイは日本の占領支配下ではなく独立国だったので、現地住民による報復感情がほとんどなかったからだ。
その後、浅丘が映画『緑はるかに』のオーディションに合格して、映画女優としてデビューするのは1954年のことだ。1959年には小林旭主演の『ギターを持った渡り鳥』のヒロインを務め、以降、渡り鳥シリーズを筆頭とする無国籍アクション映画で、小林のほか石原裕次郎、赤木圭一郎、宍戸錠らと共演して人気を集める。
日活の無国籍アクションは、アメリカの西部劇やギャング映画の雰囲気をそのまま戦後の日本に持ち込み、さすらいのガンマンが悪党と派手な銃撃戦を演じたり、荒野を馬で疾走する。この荒唐無稽な設定が受け入れられた背景には、戦前、拳銃を片手に満洲や東南アジアを放浪した大陸浪人や馬賊のイメージも影響していたのではないか。そのヒロインを、東亜同文書院の出身者を父に持ち、日本とは異質な風景の満洲とタイで育った浅丘が演じたのは、ある意味では象徴的ともいえるだろう。
























