【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第二回:戦時下の表現者たち
江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方

長谷川町子:『サザエさん』のベースは『翼賛一家大和さん』
長谷川町子/漫画家
・1920年1月30日〜1992年5月27日
・1945年の年齢(満年齢):25歳
・1945年当時いた場所:日本国内 福岡県福岡市

長谷川は10代から漫画家として活動しており、戦前の女性としては異例の経歴だった。生地は佐賀県多久村(現在の多久市)で、幼児期から姉の毬子ともども絵を描くのに熱中し、1932年に小学校を卒業後、福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に入学するが、翌年には小さな会社を経営していた父の勇吉が病死した。母の貞子は生活の心機一転をはかるとともに、娘らに本格的な勉強をさせたいと考え、兄で衆議院議員の岩切重雄を頼り、一家揃って上京する。長谷川は山脇高等女学校(現在の山脇学園中学校・高等学校)に編入したが、このころ田河水泡の人気漫画『のらくろ』に熱中しており、貞子は田河に娘を売り込んで弟子入りさせた。
田河の後押しを受け、1935年には15歳にして講談社の『少女倶楽部』で漫画家としてデビュー。早くから筆一本で生きることを目指したのは、父の死去も影響していただろう。翌年に女学校を卒業すると、田河の自宅に住み込む。田河の妻・潤子の兄は文芸批評家として名高い小林秀雄で、『サザエさんうちあけ話』には、夜中に寝ぼけ顔のまま小林を出迎えたエピソードも記されている。
その後、ホームシックにかかって実家に戻るが、『国民新聞』に連載された『ヒィフゥみよチャン』『少女倶楽部』連載の『仲良し手帖』などの作品を執筆。日米開戦が迫りつつあった1941年には、『アサヒグラフ』に四コマ漫画の『翼賛一家大和さん』を連載する。「翼賛一家」シリーズは複数の漫画家によって執筆され、大政翼賛会宣伝部の意向を受けた作品ながら、必ずしも戦争協力プロパガンダ的な内容ばかりではなく、物資の不足など戦時下の世相を反映したほのぼの系の話も少なくない。
大東亜戦争(太平洋戦争)が長期化する中、紙の供給は急速に低下して新聞も雑誌もページ数が減り、多くの漫画家はしだいに作品発表の場がなくなる。ことに少女雑誌など不要不急の物と見なされた。こうした状況下、1944年に長谷川は家族とともに福岡市に戻り、『西日本新聞』に入社して報道写真の修整や挿絵の仕事につく。これには勤労動員などの徴用を避ける意図もあった。冒頭の憲兵からスパイ扱いされた話はこの時期で、西日本新聞社に問い合わせて身元確認を受けたうえで釈放された。
1945年に入ると福岡もたびたび空襲を受ける。6月の大空襲の時は、焼夷弾が家を直撃、あわてて手元の救急袋をつかんで逃げ出したが、落ち着いてから手にした物を見ると大きなカエルだったという——まるで『サザエさん』のエピソードだ。
やがて終戦を迎えるが、占領軍が上陸してくると、夜中にいきなり米兵が家の前に現れた。女はことごとく米兵に襲われると思っていたので、長谷川は姉妹の代わりに自分一人が犠牲になる覚悟で玄関に出たが、完全に子供と間違われてチョコレートをもらう。そのあと、英語のわかる近所の中学教師に対応を任せて事なきを得た。

家族物コメディとしての『サザエさん』は、戦時中の『翼賛一家大和さん』の形式を踏まえた面があり、21世紀の現在では、祖父母を含む三世代の7人が同居する伝統的・保守的な家族像のように語られることも少なくない。しかしながら、長谷川自身は父の死後は女だけのシングルマザー家庭に育ち、生涯独身を続け、姉の毬子、末の洋子ととも設立した姉妹社を通じて著作を刊行した。終戦を契機とした連載の経緯も含め、『サザエさん』という作品の成立背景は、きわめて戦後的なものだったのだ。
























