【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第二回:戦時下の表現者たち
江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方

円谷英二:みずから軍用機も操縦した日本特撮の巨匠
円谷英二(本名・圓谷英一)/特撮監督
・1901年7月7日〜1970年1月25日
・1945年の年齢(満年齢):44歳
・1945年当時いた場所:宮城県仙台市

円谷はもともと飛行機少年だった。生地は福島県須賀川町(現在の須賀川市)で、醸造用の糀を扱う商家の子だ。須賀川町立尋常高等小学校に在学中の1910年12月、陸軍による日本初の公式飛行が行われる。当時の多くの少年と同じく飛行機に憧れた円谷は、叔父の一郎の支援を受け、1916年に東京の羽田町(現在の大田区)にある日本飛行学校に入学した(同期生には後年に作家となる稲垣足穂がいた)。ところが、教官が墜落事故で死亡して学校の運営は困難となり、やむなく退校する。
その後、巣鴨の内海玩具製作所で働くが、1919年に花見の席で映画会社の天然色活動写真(天活)で撮影技師を務める枝正義郎と知り合う。これを機に映画界に入った円谷は、各社を渡り歩き、新感覚派映画聯盟による『狂つた一頁』、衣笠映画聯盟による『稚児の剣法』などの作品に参加。アメリカ映画の『キング・コング』などを参考に、ミニチュア、操演、合成などを駆使した特撮技術の研究を進めた。
1935年には、海軍練習艦「八雲」「浅間」にカメラマンとして同乗し、航海の過程は映画『赤道を越えて』として公開される。翌年にはドイツとの合作映画『新しき土』に参加し、日本で初めて合成技術のスクリーン・プロセスを使用した。
日華事変(日中戦争)が起こった1937年、東宝に招かれる。だが、古参の撮影技師から仲間外れにされ、新設の特殊技術課を任される、当初は円谷のみの課だった。続いて1939年には陸軍航空本部の嘱託となり、みずから飛行機を操縦して飛行教育用の教材映画を撮影する。以降、終戦まで『海軍爆撃隊』『燃ゆる大空』『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』ほか、おもに飛行機を題材とした戦争映画の特撮を担当した。
戦時下の円谷の仕事でとりわけ高評価されたのが、1942年公開の山本嘉次郎監督による『ハワイ・マレー沖海戦』だ。海軍省の企画による真珠湾攻撃の記録映画で、戦後に米軍関係者がミニチュアによる特撮を実録フィルムと勘違いしたといわれる。ただ、海軍は実物の現用空母の撮影を許可せず、艦内のセットはアメリカの雑誌『LIFE』に乗っていた米海軍の空母の写真を参考に作られた。じつは、本作にはただ英雄的な戦意高揚プロパガンダと言い切れない一面もある。劇中で息子を海軍の航空隊に送り出した母親が「あの子はもううちの子じゃありませんから」と、淋しげにつぶやく場面がある。海軍省も、銃後に残された軍人の家族の心情は理解していたのだ。
円谷英二 著/竹内博 編『定本円谷英二随筆評論集成』(ワイズ出版)に収録された、「トリック撮影とともに二十七年 東宝特技監督の円谷英二(下)」という記事によると、大戦末期の円谷は特攻隊の練習用の敵艦識別模型も作らされたという。これだけ軍に貢献していたにもかかわらず、1945年8月には当時44歳の円谷も召集令状を受け、仙台の連隊に入営した。もっとも、それから8日で終戦を迎える。

そして、1954年に『ゴジラ』が製作される。その劇中には、原爆投下直後のように放射能に汚染された島、空襲の再来のようなゴジラによる都市破壊など、戦争の影が濃厚に漂う。同作で平田明彦が演じた芹沢大助博士は、みずからの発明品であるオキシジェン・デストロイヤーが、怪獣ゴジラを倒して多数の人間を救える反面、恐ろしい兵器にもなり得ることに苦悩する。この芹沢博士の姿は、万人を楽しませることもできる反面、戦争の道具にもなり得る映画に関わった円谷英二自身だった。





















