SNSと虚構の時代を生きるためにーー「デス・ゾーン」「ヤンキー 母校に恥じる」河野啓に訊く、私たちができること

「虚」に加担した後悔
——「ヤンキー母校に帰る」は、ドラマ『GTO』が話題だったこともあって、まるでフィクションみたいな不良教師が現実にそのまま登場したかのようでした。
河野:ただあの後、母校で他の教職員との軋轢もあって去ったとき、他のメディアに「ヤンキー母校を去る」みたいな表現をされました。僕自身はヨシイエが去った後、北星余市高校の取材を12年間していませんでした。それから取材を再開したときに、学校の関係者と会ったんですよ。北星余市高校にお子さんを入れている親たちと会うと、「うちの子はヤンキーなんかじゃないよ。北星余市高校にヤンキーの学校という色を付けたあなたの責任は重いよ」みたいなことを酔って絡まれて言われたりして(苦笑)。
——メディアの人間としては気が重いですね……。とりわけウェブメディアではPVを取るために、色を付けた記事タイトルや切り口を考えることは多いです。
河野:「ヤンキー母校に帰る」を作るとき、「これがウケるだろうからこのネーミングで行く」といった特に戦略もなく、ごく自然にタイトルが生まれました。全国版の放映の2年前に北星余市高校で大麻の問題が起きたんです。その影響もあって入学者が半分になったので、純粋に「こうやって頑張っている、北星余市高校出身の教師がいるんだよ」っていうのを全国の人に知ってほしかったんです。その後、番組の主人公が学校をあんな辞め方をするというのは、まったく予想外でした。彼が番組でブレイクしてから、学校を辞めるまでの2年間は、私自身も苦しみましたね。
——義家さんはブレイクした後、全国で講演会に行うようになったことが、逆に高校の教師陣と考えのズレが生じてしまったと「ヤンキー母校に恥じる」で書かれています。義家さんが教師を辞める分岐点だったのだろうか、と感じました。
河野:そうですね。彼も純粋に母校のためを思ってやっていたことなので、可哀想な面はあったんですけど叩かれてしまった。ただ、叩かれざるを得ないことを彼はしていたんでしょうけどね。周囲から突っつかれると、誰しも多少なりとも反発しますが、彼は非常に気性が荒いし、感情の浮き沈みも激しいので、言葉の返し方で職員室の雰囲気が相当悪くなったんじゃないかと思いますね。
——政治家になった義家さんを見ると覇気がなくなっていいたのが衝撃でした。
河野:裏金問題が発覚した後の最後の衆議院選挙だけは注目していました。退路を断たれての選挙活動を、彼のホームページで毎日見ていたんです。
河野:そこで彼は、「昔、北海道の私立高校で教師をやっていて、その指導ぶりからヤンキー先生と呼ばれ、テレビドラマにもなりました」と語っていたんです。選挙で掲げたスローガンも「誰一人取り残さない」なのですが、それは北星余市高校の「どんな生徒も見放さない」という教育方針に近いスローガンで、結局、そこに戻るのかと。一方で、「どうかお願いいたします」という、古いやり方の選挙戦だったので、厳しいと感じました。
——そのスローガンは義家さんの公式ホームページに記載されていますね。
河野:選挙を戦うためにヤンキー先生に戻って、有権者に頭を下げるしかなかったのかというのは、胸が痛かったですね。議員生活20年の間に、他に選挙民に訴える実績はなかったのかという。「私はこうした実績を上げました。だから投票してください」となぜ言えないんだという。
——「ヤンキー母校に恥じる」は最後、義家さんが街頭演説する現場に直接、河野さんが訪れて、義家さんに「行ってらっしゃいませ」と声をかけられるところで終わります。私の印象では「義家さんは河野さんの存在に気づかなかったのだろうか」と感じたんです。
河野:わからないですけど、たぶん気づいていたんじゃないかと思います。なんとなく、私がそう感じるだけなんですけどね。義家氏は時々、こっちを見ていたんですよ。「まさかここまで来るわけがないだろうな」って確信が持てなかったのかもしれないですが、僕は彼に取材を依頼していたので、「河野さん、ついにここまで来ちゃったんだ」という焦りをひょっとしたら感じていたかもしれないです。
——やはり義家さんの表情や雰囲気を見るに、河野さんの存在に気づいていたと。
河野:本当に気づいていたかどうかはわからないですけどね。ただ、僕はそう思います。「わかんないわけはないよな」と思っていますね。どっちにしろ、「行ってらっしゃいませ」と言われた事実は変わらないし、重いです。
——政界を引退された今こそ、義家さんを取材したいという思いはありますか。
河野:ないです。私は義家氏に取材依頼して断られたんですが、いま思うとよかったなと思っているんです。なぜかというと、いま彼自身が自分の言葉で自分の事を語れるじゃないですか。どこまで正直に語るかは眉唾ですけど、彼が政界を引退し、これから教育の世界に戻るにしても、違う道に行くにしても、この20年、あるいは生まれてからの50数年というのを、ちゃんと自分の言葉で説明しておいたほうがいいんじゃないか、と思います。話は少し変わりますが、私が2001年最初に作った「ヤンキー母校に帰る」の北海道ローカル版では、トイレで大勢の1年生がタバコを吸って謹慎処分を受けるシーンがあるんです。「俺が吸いました」って、10人くらいが正直に名乗り出たんです。そこで、ヨシイエは、「もしも名乗り出なかったり、言い逃れしたり、ずるく生きているヤツがいたら絶対、地獄に落としてやる」って言ったんですよ。
——教師時代の義家さんは、人情と義理で指導する先生、そんなイメージでした。
河野:彼が政治家になってから、そのシーンを思い起こすんです。私が知るヨシイエだったら、言い逃れしたりずるく生きている義家氏に、蹴りのひとつくらい見舞うんじゃないかと。「地獄に落としてやる」っていうんじゃないかと。そんな風に思ったんですよね。私も彼を世に送り出した責任がありますから、自分を責めました。
——私が「デス・ゾーン」と「ヤンキー母校に帰る」で琴線に触れたのは、メディアとして取り上げた人間の人生が行き詰まった責任について、反省しているものとも読める点です。
河野:正直なところ、僕はメディアとかマスコミとかについて、語るものは持ち合わせていないんです。私自身もよくわからないところがあるんです。私にとってのメディアというのは、たぶん私自身なんですよ。私が調べたことや、実際に聞いたこと、私が思っていることの中から、誰かに伝えたくなるようなことを、「嘘や間違った情報は流さず」「憶測で書かず」「伝える情報の伝え方にはこだわって」というそれなりの美学を持って送り出したいという。
——なるほど。
河野:一方では、私自身がメディアによる情報の受け手でもあるわけですよね。受け手として心がけているのは、「流れてくる情報を鵜吞みにはしない」ということです。そう思ったきっかけは、2001年に起こった北星余市高校の大麻事件なんですよ。その時に「大麻を吸った生徒が何人もいる」と、私が当時勤めていた北海道放送とは別の放送局が全国放送に流したんです。最初はわずか2分くらいのニュースでしたが、続報には明らかに事実に反することもありました。言葉は選んでいるけど、あたかもあの学校で大麻パーティが開かれたような印象を与えかねない内容だったんです。
そのニュースのキャスターが「大麻を吸うことはまぎれもない犯罪ですが、どうやら学校はその事実を把握しようとはしていなかったようなんです」とも言っていたんです。私はそのニュースを、北星余市高校の職員室で他の教師たちと一緒に見ていました。教師たちがこの問題と苦闘している姿を取材している時に、その局は誰かからのタレコミに反応して、全国に流したんですね。
そのときに「どうやら」とか「~ようなんです」と言わなきゃいけないようなものは絶対に流さないって心に決めたんですよ。無責任な報道の仕方には、怒りを覚えました。確かにそこでは何かが起こっている。でも、何が起こっているかは、本当に伝わっているかわからない。ある種の猜疑心を持って、深い意味での疑いを持ってニュースや情報に触れようと思っているんですよね。それが、私の受け手としてのメディアとの関わり方です。
















