冤罪を晴らすのはいかに困難か……明治・大正の事件を扱った注目の新刊ミステリ2冊を千街晶之が読む
■科学捜査が発展しはじめた大正時代の事件記録
日本どころか海外でも指紋鑑定が捜査に採り入れられていなかった明治21年を背景とする『明治殺人法廷』に対し、夜弦雅也『逆境 大正警察 事件記録』(講談社文庫)は、時代が進んで科学捜査が発展した大正2年を背景にしている。著者は歴史小説『高望の大刀』で第13回日経小説大賞を受賞してデビューしており、本作は第2長篇ということになる。
主人公の虎里武蔵刑事は、豪傑めいた名前が似つかわしくない小柄な書生っぽい若者だが、「眼力でピストル強盗を威圧して逮捕した」という評判により(実は誤解なのだが)警視庁の刑事課に抜擢された。そんな彼が臨場したのは、東京府西多摩郡で行方不明の幼女が扼殺死体で発見された事件の現場だった。だが、警察が明治の世になっても江戸時代の岡っ引き方式を引き継いで個人の手柄競争を奨励したため、本庁と所轄が互いに情報を隠して対立するなど、その捜査はおよそチームワークというものとは無縁である。本庁の捜査係長は被害者の実父・咲次郎が犯人だと決めつけ、武蔵の疑問を押し切って逮捕しようとした。だが、咲次郎が誤って車に轢かれたため、嫌疑者死亡につき捜査は終了となった——というのだから無茶苦茶にも程がある。この決着に納得できない武蔵は咲次郎は無実だったかも知れないと考え、密かに捜査を続行する。
事件の数年前の明治44年、警視庁は日本初の鑑識係を創設し、世界的にも黎明期にある指紋鑑定を捜査に採り入れている(実は指紋鑑定の発祥は日本と縁が深く、明治期に来日したイギリス人宣教師・医師のヘンリー・フォールズは、日本人が拇印により同一人物を特定していることを知り、また大森貝塚から出土した土器に付着した古代人の指紋が現代人のものと同様であることから指紋の研究を始めたという)。だが、捜査の手法がいかに先進的でも、それを使いこなすべき警察官の意識が旧態依然ではどうしようもない。武蔵は、本庁が知らない所轄の情報を調べ上げ、似たような事件がほかにも起きていたことを知る。それらの事件には犯人が逮捕されていたものもあったが、一連の事件が同一人物の仕業であれば、逮捕された人々は冤罪ということになる。
決着済みの事件が掘り返されるのを喜ばない警察上層部は、あの手この手で武蔵の動きを封じようとする。絶体絶命の状況で、武蔵はいかにして冤罪を証明し、真犯人を引きずり出すことが出来るのか。終盤の展開は手に汗握ること必至である。
今回紹介した2作品では、物証と論理的推理を重視する捜査の重要さと、それを軽視する往年の日本の警察や司法の後進性が描き出されている。いや、袴田事件の無罪判決に対する検事総長の開き直りとしか思えないコメントや、2010年の大阪地検特捜部主任検事証拠改竄事件、2020年の大川原化工機事件など、でっち上げも辞さない警察や司法の本質は明治・大正の世から実は変わっていないのではないか——そんな恐怖も感じずにはいられないのである。