話が飛ぶ人は体内に複数の時間が流れているーーADHD当事者の作家が描くエッセイ『あらゆることは今起こる』

柴崎友香『あらゆることは今起こる』評

 現在のみならず、過去や未来を含む「複数の時間」が(ということは、同時にあらゆる「場所」も)うねりながら流れ込む、今ここの「身体」。むろん、本書で柴崎が明かす(たとえば、ADHDに由来するらしい)感性を、そのまま作品読解の「正解」とするような短絡は慎みたい。だが、著者は実際に、その作品群において、こうした時間(身体)感覚を繰り返し描いてきた。

  たとえば、柴崎のデビュー作『きょうのできごと』(2000年)の文庫版解説からすでに、小説家の保坂和志は、柴崎を(映画監督ジム・)「ジャームッシュ以降の作家」として賞賛しつつ、冒頭部分の精緻な読解からその注意散漫的な文体の「機敏な動き」を評価していた。歪曲する時空間を描いた作品としては、「なあ、おれ、ワープできんねんで。すごいやろ」という一文から始まる『ショートカット』(2004年)の表題作や、ある人物の「同じ一日が二回あるときがある」という不思議な告白が印象的な『パノララ』(2015年)がある。

  こうではなかった現在の「可能性」への想像、という点では『わたしがいなかった街で』(2012年)や『千の扉』(2017年)で描かれた、「わたし」ではない「わたし」の幾「千」通りの生き様が思い浮かぶ。それと表裏一体の関係にあるのが『寝ても覚めても』(2010年)で描かれる「あなた」ではなかった「あなた」の姿である。

 ともあれ、著者のそうした時間意識の有り様が全面的に展開されることになったのが、まさに「時間」をタイトルに冠する短編集『百年と一日』(2020年)だ。収められた各編には、次のような(ガルシア=マルケス『百年の孤独』を想起させる)一風変わったタイトルが付いている。

  いくつか続けて引用しよう。「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下の植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」。「小さな駅の近くの小さな家の前で、学校をさぼった中学生が三人、駅のほうを眺めていて十年が経った」。「アパート一階の住人は暮らし始めて二年経って毎日同じ時間に路地を通る猫に気がつき、行く先を追ってみると、猫が入っていった空き地は、住人が引っ越して来た頃にはまだ空き家ではなかった」。

  一日一日を「日常」として過ごすように、「今」目の前にある言葉の連なりをひとつひとつ追ううちに、気がつけば読者は、遥か「未来」へ、あるいは遠い「過去」へと連行されている。この不思議な時間感覚に身を委ねることこそ、柴崎の小説を読むことの大きな醍醐味のひとつだろう。

 さて、柴崎は本書の「エピローグ」で、表題である「あらゆることは今起こる」に匹敵する、作家的に重要な「テーマ」として「人間は二箇所に同時にいることはできない」という一文を挙げている。著者はそれらふたつの「テーマ」を「たぶんすごく関係している」としながらも、今回はその紐帯を明らかにはしてくれない。だが、それでいいのだと思う。

 なるほど「人間」は「今ここ」にしか存在できない。にもかかわらず「人間」は「今ここ」に存在しない「あらゆること」を想像できる。それはわたしたちにとっての薬であり毒であり、スーパーパワーであり呪いである。たぶん私たちはこの神秘にまだもっと、いや、いつまでだって、真摯に向き合い続けるべきなのだ。

■書籍情報
『あらゆることは今起こる』
著者:柴崎友香
価格:2200円
発売日:2024年5月13日
出版社:医学書院

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