藤子・F・不二雄版の『火の鳥 未来編』? 人類がはるか宇宙の果てを見る漫画『旅人還る』
『旅人還る』における未来像は、上記で述べたような「分岐点」のひとつの変奏された形態と言えよう。旅のなかでは、無数の恒星系や無数の地球型惑星が観測されるが、そこで新しい発見が得られることはなく、いわば地球の、ありえたかもしれないより良い可能性を見出すことはできない。また、幾度コールドスリープ――いわば異なった時代での生き直し――を繰り返しても、そこで目だった新しい変化は見られないままだ。
『旅人還る』では、そのように「変わらなさ」が強調される。宇宙船での生活は「食べて、観測して、データを送って、寝て」の繰り返しで、「無機質ののっぺらぼうの時の流れ」といった言葉でも暗示されるように、やがて主人公は虚しさを募らせるようになる。その表現のテクニックとして興味深いのが、チクバが主人公に対し、宇宙における地平線や、宇宙の始原について語る計8つに及ぶコマだろう。話される内容自体は興味深いものだが、最後のコマを除き、主人公は反応をすることはなく、そもそもそれまでの7コマは、セリフの吹き出しを除けば絵の内容そのものにもまったく変化はつけられていない。これらの連続するコマから、主人公の生活の変わらなさ、また主人公の感受性が麻痺しつつあることが浮き彫りにされるのである。
そして『旅人還る』では、その「変わらなさ」こそが、物語の救いとなる。「変わらなさ」によって、主人公が何百億年という単位で覚えることとなった孤独は、最後に至って氷解を見せる。
それを考える上では、これも藤子・F・不二雄のSF短編が補助線となる。着目したいのは、主人公が過去の故郷で初恋の人のそばに居続けるため、土蔵の中での幽閉生活を自ら望む『ノスタル爺』と、主人公が自分の運命を変えるために、過去の自分に心変わりを説くも失敗する『あのバカは荒野を目指す』。この二作に共通するのは、合理的に考えれば、主人公が誤った道を選んだとも言える点である。
またこの二作は、いずれも主人公が過去にタイムトラベル(という言葉で明示されているわけではないが)を行うという意味でも共鳴する。そして、主人公の行動は、過去、およびそこから派生する現在から未来に影響を与えたわけでもない。あくまでも「変わらない」円環のなかで、彼らの物語も幕を閉じる。しかし、彼らの置かれた一見厳しげな状況に反して、その表情はどこか満ち足りており、作品の読後感も、不思議な温かさを感じる。
いや、ここにあるのは「救い」ではない。結局のところ、「変わらない」というそれ自体絶望的な状況が前提のなかでは、私たちは慰めのために「救い」を勝手に見出し、そこに勝手な希望を感じて満足しているというだけなのだ――そのような指摘はあるかもしれない。筆者もそう言われれば、とっさに反論はできないとは思う。
しかし、こうも思う。そもそも「救い」とは、明確な基準があるものではなく、まさに私たちの非合理な、身勝手な思考に左右されるものなのだ、と。
『旅人還る』においては、最初から最後まで「変わらない」世界が描かれる。主人公は銀河を抜け、銀河を抜け、どこまでも等質な宇宙の旅を続ける。文字通り「無」の見開きに象徴的なように、その「変わらなさ」は主人公の精神を蝕んできたことが見受けられる。しかし、最後にその「変わらなさ」によって、主人公の前には不意に明るさが訪れる。『旅人還る』は多くの作品で「変わらなさ」を変奏してきた藤子・F・不二雄が、もっとも「変わらなさ」の持つ両義性に向き合った作品と言えるのではないだろうか。
※なお、タイトルは「帰る」ではなく「還る」。常用外の表現だが、たとえば「自然に還る」「土に還る」など、「帰る」よりも、根源的な存在に立ち返るといった意味合いが強い。本作を読んだあとに改めてタイトルを見ると、この「還る」には、最終的に主人公のたどり着く地点への示唆が鋭く含まれていることがわかる。