「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」 藤子・F・不二雄が示した「土地」へのアイロニー

藤子・F・不二雄の「土地」感

 藤子・F・不二雄の作品のなかには、「土地」に着目したものも少なくない。たとえば『ドラえもん』のなかでも、家賃の高騰や遊び場所の不足という事態に直面したのび太やドラえもんが、さまざまな策を講じようとするエピソードは見受けられる。それは新しく島を作ろうとしたり(『無人島の作り方』)、日本の国土を広げようとしたり(『ひろびろ日本』)、周囲の土地を少しずつちょろまかして野比家のものにしようとしたり(『チリつもらせ機』で幸せいっぱい?)などだが、いずれも土地の国有化や環境の問題、もしくは固定資産税の要求などでうまくいかない。最後には「土地だけは作れないなあ」「せまい家の中でさわぐな」といったセリフがだめ押しで登場し、読者は夢から、シビアな現実に引き戻されることとなる。

 また、「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」は、藤子作品のなかではじめてあらわれる言葉ではない。もちろん一字一句同じではないにせよ、その淵源は『オバケのQ太郎』のエピソード『百坪一万円』(1966年発表)にさかのぼることができる。相次ぐ家賃の上昇に辟易したQ太郎の居候先・大原家は、マイホームを求めてさまざまや家や土地をまわるが、安かろう悪かろうの物件ばかりを紹介するインチキ不動産屋に振り回されて疲弊する。そのいっぽうで、ちゃんとした土地となると値段的には手が出せず、「自分の家なんて、当分おあずけだ」という結論に達する。そこでQ太郎が口にするのが、「土地なんて人間が作ったわけでもないのに、持ち主があるなんておかしいや」という言葉なのだ。

 では、この違和感をどのように昇華させるか。Q太郎はある改善策を考え、実行に移す。それは土地を「みんなで少しずつ分けるべき」という考えに基づいた策である。ずばり、さまざまな家の庭の土地をすくってきては、大原家の庭にもってくるというもの。かくして、大原家の周りは土だらけになり、朝になって目覚めたパパや正太は、愕然とした表情を浮かべることとなる。これでは問題の解決にも何にもなっていないわけだが、つまり図式的にいえば、Q太郎もドラえもんも、土地をめぐる既存の価値観からの脱却はできずに終わる。

 『3万3千平米』でも、「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」は、結局は「お題目」以上の意味をもたない。寺主も、妻も、一郎も、奇妙ななりの男も、土地に対する認識や価値観の「ずれ」はありながらも、「土地はだれかのもの」を前提としたシステムのもとで考えを組み立て、行動や発言をする。

 『3万3千平米』のラストは、一見はハッピーエンドに見える。いや、筆者もハッピーエンドであるとは思うのだが、その反面、のどに小骨が刺さったような感覚をぬぐうこともできない。なぜなら、その幸福は寺主の努力、もしくは彼の変化によって手に入れられたものではなく、あくまでも棚からぼた餅的に転がり込んできたものであるからだ。

 寺主自身は彼の言葉を借りれば、「グズでドジでダメおやじ」からさほど変化もないだろうし、「土地はだれかのもの」に則ったシステム自体も、一瞬は揺らいだように見えながらも結局は温存される(詳細は伏すが、寺主が最後に手に入れる幸福もまた、「土地はだれかのもの」に則ったシステムの果実である)。

 それでいいのか?と思いつつ、読者がそうした違和感を抱くことは、藤子・F・不二雄が企図したものでもあるだろう。『オバケのQ太郎』や『ドラえもん』にみられるように、個人がシステムに抗うことの不可能性を、作者は知悉している。だからこそラストにおいては、普通はありえないような幸運に直面した、寺主の複雑な表情まで藤子・F・不二雄は包み隠さずに描いたし、それが心に残る。

  むしろこんな奇跡が起こらない限りは、土地というシステムに振り回される個々人が救われることはけっしてないのだ。『3万3千平米』が最後にたどりつくのは、宝くじ的偶然を手にした男の幸福ではなく、「土地」という不合理に反発心をもちながらも、良くも悪くも、結局はそこに取りこまれざるを得ない人々の悲哀という一回転させたアイロニーであり、それを一見「ハッピーエンド」で包み込んだことに、藤子・F・不二雄の作家としての凄みがある。そう言えるのではないだろうか。

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