『神様のカルテ』に次ぐ新たな代表作にーー夏川草介が『スピノザの診察室』で描いた命の在り方

夏川草介『スピノザの診察室』インタビュー

ちょっとでも世の中が良くなってほしい

ーー『スピノザの診察室』に出てくる医師や看護師、患者を含め、すべての人が自分の人生に誠実に向き合っています。

夏川:人間の良い面を書きたいという気持ちはあります。あまり世の中のことに詳しくないのですが、悪や狂気に触れるような作品がすごく多いような気がしているんです。小学生の子供がいるんですが、学校で流行っているマンガなどを見ると、首が飛んだり手が千切れたり、ビックリするような内容のものもある。悪を描くことも大切ですが、私としては「小さいうちは人間の良い面をたくさん見てほしい」と思っているんです。だから『スピノザの診察室』は小学生の高学年くらいから読めるように意識しました。だからと言って空想的な善人ばかりを描いたつもりはないんですよ。例えば私が出会ってきたドクターたちは真摯に患者に向き合う方ばかりで。患者のことを置き去りにして自分の出世を優先する医者なんてーーゼロではないですが(笑)ーーきわめて例外的だと思います。だから、この本は理想郷を書いたわけではなくて、自分が二十年の医師経験の中で、実際に見てきた風景の延長上にあるという感覚ですね。

ーー主人公のマチ先生は以前、大学の医局にいて、将来を嘱望されていました。「大学病院で上を目指すのか、地域に根差した医者として生きていくのか」という選択を迫られるのも、実際にありそうですね。

夏川:そうですね。私は大学院に3年半いたのですが、多くの先輩ドクターたちが臨床をやりながら、研究の領域でも色々な実績を上げていました。両立するのは、とても大変でしたけど。ただ最近は研究や論文そのものにあまり関心がなくて、最初から大学院を希望しない医師も増えている気がします。臨床現場でがんばれればそれでいい、という感じでしょうか。でも、私の経験から言えば、短い期間でも研究したり、論文を書いたりすることは、医師としてきわめて重要な経験だと感じています。ですからこの本の中でも、「こっちが大事だ」という書き方はしていません。

ーーなるほど。マチ先生が凄腕医師の片鱗を見せるシーンもありますが、ドラマや映画によくあるような派手な場面はなくて。あくまでも実際の医療行為に即しているところも、夏川さんの作品の特徴だと思います。

夏川:そう言っていただけるとありがたいです。私自身が医療の現場にいるので、迂闊なことを書けば、周りの人から「それはあり得ない」と言われかねない。ドクターや看護師が読んでも「不自然じゃない」と思ってほしいし、“奇跡”は書かないようにしています。それを踏まえて、お話として面白くする努力もしていますけどね。特に今回はエンターテインメントして読めるように心を配ったつもりなので。

ーーマチ先生の同僚のドクターも個性的でキャラが立ってますよね。大学病院から研修生として赴任してくる女性医師・南茉莉との関係も気になります。恋愛の要素もありますよね……?

夏川:そうですね。罪のない仕掛けと言いますか(笑)、楽しく読んでもらうために取り入れました。『スピノザの診察室』は1作だけではなく、ある程度の長さで書くつもりなので、そういう部分も必要なのかなと。ただ、恋愛要素は主題にはならないし、優先順位は明確に決まっているんですけどね。主人公のマチ先生にとっていちばん大事なのは、目の前の患者さん。南さんとの関係もしっかり書いていこうと思っていますが、それが上位に来ることはないと思います。

ーーまた小説のなかには、「人に迷惑をかけたくない」と生活保護の受け取りを拒否する患者が登場します。医療費や貧困の問題も、この作品で描きたかったことなのでしょうか?

夏川:医療費や生活保護については詳しくないので、政治的な意見を発信するつもりはありません。生活保護を受けている人に対する批判も耳にしたことはありますが、私は詳しい実態も知りません。ただ実際に、生活保護を受け取らずに、治療を辞退して亡くなった患者さんがいたんですよ。「本当に困っている人のために使ってくれ」と言って。その方はとても印象に残っているし、心を打たれる経験でしたから、書き残しておきたかった。もちろん、そうじゃない人もいます。生活保護だから医療費はタダなんだと、勝手気ままに湿布や眠剤を要求する人もいることはいますが、そんなことをいくら書いても世の中は良くならないだろうなと。

ーー「この人が悪い」「不公平だ」といった情報のほうが注目を集めてしまうのも事実ですからね。

夏川:安心する情報よりも、怖い情報、過激な情報に人間が反応してしまうのは、脳生理学的にも証明されているし、そうやって注目を集めれば、お金も集まるのが今の社会です。グロいもの、エロいものは、資本主義ととても相性がいいんです。そういった内容のコンテンツが増えてしまうのはしょうがないところもあるのですが、自分の小説では、そうじゃない方向を示したい。一石を投じると言ったら大げさですが、それが私なりのやり方だと思っています。

ーーそういう考え方も、医療の現場での経験が影響しているのでしょうか?

夏川:「ちょっとでも世の中が良くなってほしい」という考えはなぜか昔からありました。以前は漠然としていたし、人前で言うのは憚れる時期もありましたが、40代になってだいぶ肝が据わってきて。今ははっきりと「世の中が良くなってほしい」と思いながら書いています。母親の影響も大きいかもしれません。子どもの頃から「人の役に立てる人になりなさい」と言われていたんですよ。高校生くらいになると「人様に迷惑をかけないように」になり、大学を出る頃には「おまえの好きな人生を歩め」に変わったのですが、最初に教わったことがいちばん心に残っているんですよね。

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