『神様のカルテ』に次ぐ新たな代表作にーー夏川草介が『スピノザの診察室』で描いた命の在り方

夏川草介『スピノザの診察室』インタビュー

 累計発行部数340万部のベストセラー小説『神様のカルテ』シリーズで知られる作家・夏川草介が、新作『スピノザの診察室』(水鈴社)を10月27日に上梓した。

 主人公は、京都の小規模病院に勤務する内科医、雄町哲郎。妹を病で亡くし、甥の龍之介と暮らすために職を得た彼は、かつて大学病院で数々の難手術を成功させた凄腕の医師だった。末期のガン、アルコール依存症による疾病など、深刻な状態にある患者と向かい合い続ける雄町。その真摯な生き方の根底には、“人の幸せとは?”という本質的な問いがあったーー。医師として20年のキャリアを持つ夏川は『スピノザの診察室』について、「ずっと見つめてきた人の命の在り方を、私なりに改めて丁寧に描いたのが本作です」と語る。その背景には何があるのか、夏川自身に語ってもらった。(森朋之)

どうしたら幸せに時間を過ごせるのか

夏川草介『スピノザの診察室』(水鈴社)

ーー『スピノザの診察室』の舞台は京都の地域病院。このシチュエーションを選んだのはどうしてですか?

夏川:私が住んでいるのは長野県なんですが、生まれは大阪の高槻という町で、予備校は京都駅前でしたし、遊びに行く場所は河原町だったんです。もともと「その土地の情景が安定していないと、人物が動いていかない」という感覚がありますし、腰を据えて新しい物語を書くためには、よく知っている街じゃないと厳しいなと。長野県を舞台にすると『神様のカルテ』のイメージと重なってしまうし、少し雰囲気を変えたいということもありました。

ーー主人公の内科医・雄町哲郎は自転車で京都の街を移動します。彼の視線を通して描写される生き生きとした光景も印象的でした。

夏川:「人間は大きな世界のなかで生きている小さな存在だ」という感覚があるので、人間を描こうとすれば、まず景色ありきなんです。『スピノザの診察室』では、命の儚さとか、自然に還っていくイメージもあったので、特に景色は大事にしました。ただ、私が京都にいたのは20年以上も前の話です。京都駅も河原町周辺も変化の激しい場所なので、今行ってみたらだいぶ変わっているかもしれないです。

ーー京都を知っている人が読むと、「懐かしい」と感じるかも。

夏川:そうかもしれません。主人公のマチ先生が住んでいる三条京阪のアパートは、私の友人が住んでいた場所がモデルになっているんですよ。本人にも許可を得ているんですが、彼も「あの頃とずいぶん違うよ」と言っていて。その分ファンタジーな空気感が出て、ちょうどいいかもしれません。

ーー小説に登場する患者は、年齢が高く、深刻な症状を抱えている人が多くて。「残された時間をどう生きるか?」も大きなテーマになっていますね。

夏川:私自身、医師になってちょうど20年になり、「幸せに生きるとはどういうことか?」ということを深く考えるようになりました。若い頃は治療に夢中で、いかに治すか?ということばかりに意識が向いていましたが、30代になって「それだけではダメだ」と思うようになって。看取りにも目を向けるようになりましたが、それでも何か足りないと感じて、もっと全体像を見なくてはいけないと思うようになってきたんです。そのなかでたどり着いたのが、「幸せ」という言葉。病気を治す、穏やかに看取る、といったことだけではなく、「どうしたら幸せに時間を過ごせるのか」を景色として表現したい。おそらくはそれが、この作品の原動力になっていたと思います。

「できることは限られている」という考え

ーー夏川さんご自身が医療の現場で感じことがダイレクトに反映されているんですね。患者さんと向き合うなかで、「幸せとは?」という哲学的な問いにたどり着くという。

夏川:なぜそうなったかと言えば……私はどちらかというと引きこもりがちな人間というか、壁にぶつかったときのいちばん相談相手は、本だったんです。医学生の頃は夏目漱石の本にいろいろなことを教わった感覚が残っているし、その後、小林秀雄であるとか、様々な評論家や哲学者の著作も読むようになって。そのなかでスピノザの哲学と出会ったんです。

ーー小説のなかでもスピノザについて語られる場面があります。夏川さん自身は、スピノザのどんなところに惹かれているんですか?

夏川:医学生、研修医の頃はニーチェが好きだったんです。切れ味が良くて、勇気づけられる哲学者だと思っていたのですが、医者になり、年齢を重ねるなかで「この考え方だけでは幸せに過ごせない人がいるのでは」と考えが変わってきて。ニーチェの哲学を実践すれば、どうしても孤独になる。一人で戦える気力がある間はいいかもしれませんが、大病を抱えたときに「それでも自分は一人でがんばれる」と言うのは難しいと思うんです。

ーー弱さを克服し、強い精神を持って生きることを掲げた「超人」という概念もそうですが、ニーチェの思想は強い人間の為のものという印象もあります。

夏川:そういうところがありますよね。スピノザはそうではなく、人とのつながりを重視しながら、「できないこともたくさんある」という言い方をしているんです。西洋圏の哲学は背景にキリスト教の影響が大きくて、「いつも神様が見てくれているから大丈夫」という方向に向かうことが多い。我々にとってはかなりハードルが高い、共感しづらい考え方ですよね。スピノザは17世紀の人でありながら、独特な宗教観を持っていて。「神はあなたを見てくれていない。すべては決まっていることで、あなたができることは限られている」という考えを示していたし、それは私の価値観ともつながっています。

ーー『スピノザの診察室』の第4話「秋」には、スピノザの哲学を引用した「できることはない だからこそ努力する」という一節が出てきます。

夏川:人間中心的な考え方では、上手くいかなかったときに、どうしても「自分が悪かったのでは」と思ってしまうんです。医療のことで言えば、ガンを宣告された患者さんの多くは、「なにが悪かったのですか?」と質問されます。つまり自分を責めたり、場合によっては周りを責めたりするわけですが、それはどんなことでも人間が作り上げてきたという世界観のせいではないかと思います。でも人間は、もっと小さくて無力な存在です。だから私としては「誰も悪くないです」と伝えたい。その言葉を自信を持って言うために、スピノザの哲学体系はとても有効だと思っています。ときには無力感や諦観につながることがあるので、バランスが大切ですが、希望のある考え方だと感じています。

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