溶接工からジュニアアイドルまで、多様なテーマ並ぶ第169回芥川賞 候補5作品を徹底解説
千葉雅也『エレクトリック』(『新潮』2月号)
『デッドライン』(2019年)、『オーバーヒート』(2021年)に続く3度目のノミネート。〈日常は何も変わらない。だが、この一九九五年には、見えず聞こえもしない地滑りが起き始めている。〉
本作の舞台は、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、インターネット普及、『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始の年として記憶される1995年。高校2年生の主人公・志賀達也がまだ、同性に対する性的な関心や「男らしいもの」への嫌悪を「どうしたらいいのか、わからないまま」でいた頃の話。
本作には、世界の未知の側面との遭遇が多数書き込まれる。オウムやエヴァの世界観をはじめ、ハンドパワー、オーディオへの「怪しい」ある種の「宗教」的な「信仰」、インターネットを介した「宇宙人」さながらの赤の他人との交流、存在しない「第三オリオン通り」の夢、まだ見知らぬ「東京」、そして「影の地図」により街に浮かび上がる「ゲイの「ハッテン場」」……。そうした世界を触知したとき、達也は「笑い声」を漏らさずにはいられない。
無論、そこには作品終盤のある場面で「わからんものをわからんままにするわけにはいかん。科学的じゃない」と自身に言い聞かせるように口にする「父」の姿が対比されるべきだろう。達也がその頃、「英雄」と呼んで信奉していた父は、作品冒頭「ハンドパワー」の正体を「静電気」だと「科学」的に解き明かしてみせる。だがある場面で達也が「父」に「影の力」を発揮し返す点に象徴的なとおり、本作を通じてその「英雄のシルエットが急速にしぼんでいく」ことになる。
だが本作に限って言えば、それはかならずしも、たんなる「父」殺しの「物語」を意味しないだろう。ここで達也はまだ(作中の言葉で言うなら)「無現小を飛び越えること」で、その怪しげな世界の側に完全に身を浸すことはできないからだ。作品ラスト、突如理解を超えて出現する「アンプ」に対し、達也は父とともに「呆然と眺めてい」るほかない。本作が描くのは、その存在を予感しながらも、まだ把握し得てはいない、という絶妙な端境期である。その曖昧な瞬間を切り取ることを可能にしているという点でも、本作の年齢/年代の設定はおそらく効いている。
乗代雄介『それは誠』(『文學界』6月号)
『最高の任務』(2020年)、『旅する練習』(2021年)、『皆のあらばしり』(2021年)に続く4度目のノミネート。〈僕は何もしていない。ずっと何もしてこなかった。何かをしているとしたらやっと今しているところで、僕は一人で書くのでなけりゃ、誰のことも何のことも考えられないんだ。リスの頬袋みたいなのが目と耳の間にあって、そこに溜め込んだものを部屋に持ち帰って来て、こうして文字で並べて、ようやくそれが自分にとって何であるか考え始めるんだ。〉
本作は「僕」が「高校二年生の修学旅行の思い出」の記録する手記として書かれている。その東京への修学旅行中の自由行動の予定を決めるなかで「僕」が提案することになったのは、生き別れた「おじさん」に会いにいく「計画」であった。本作は「僕」と同じ「三班」になった七人の男女の冒険譚となる。本作を一読した者は「僕」が「それぞれの名前〔……〕は、目に入れるだけで僕の感傷を大いにそそってきやがる」とおり、「三班」の面々を好きにならずにはいられないだろう。過去作の多くで、姪・甥/叔父・叔母の組み合わせを用いて物語を描いてきた作者だが、(私は必ずしもそうは思わないが)そうした過去作にある種の「狭さ」があったとして、本作において作家は新たな関係性を描き、水平的なひろがりを獲得したように思われる。
これまで候補になった作品、そして本作を読んであらためて思うが(作中、警官に補導されかけて「僕」が「黙って嘘ばかり書きつけてきたせいで、口から出まかせが得意なんだ」と書くのに似て)、乗代氏ほど「噓」が上手い小説家はなかなかいないのではないか。もちろん、それは「小説」が上手いということと同義である。それを良いと思うか、悪いと思うかはともあれ、それは間違いない事実であり、中途半端な「真実」味を装うよりもよっぽど小説家として潔い態度なのではないか。乗代氏の作品はいずれもその叙述の至るところで、初めから包み隠さずこう主張している。全ては「噓」。でもだからこそ、本作で彼の言う「それは誠」が尊いのである。
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私の受賞予想は、千葉氏と乗代氏です。