『釣りキチ三平』作者・矢口高雄の妻が語る、二人の出会いと今だから話せる漫画家生活のリアル
矢口高雄、突然銀行員を辞める
――そんな矢口先生にも転機が訪れます。白土三平の『カムイ伝』との出合いを機に漫画家への情熱が再燃。約12年間務めた銀行を退職して、プロの漫画家になる決心をしました。
勝美:夫は誰にも相談しないで、いきなり銀行を辞めてきたんですよ。帰宅した夫をいつものように出迎えたら、「辞めてきた」と言われてね。
――ええっ!? それを聞いて、勝美さんもさぞやびっくりしたのでは。
勝美:私は「あ、そう」と言いましたけれどね(笑)。
――勝美さんの反応が冷静で凄いですね。普通なら驚くものだと思うのですが……。漫画家は成功が約束されているわけではありませんし、周囲の風当たりも強かったのではないでしょうか。
勝美:辞める前から風当たりは強かったですね。十文字支店に異動したときに一軒家を借りたんですが、この頃、夫は『ガロ』に投稿する漫画を描き始めていたんですよ。そしたら夫の母から、「高雄にそんな余計なことをさせて、もし銀行を辞めたらどうしてくれるんだ!」と言われました。辞めた後は、「お前がしっかりしていないから、高雄が銀行をやめたんだ!」と、繰り返し、繰り返し、言われてね。
――勝美さんの苦労は大変なものだったんですね。
勝美:辞めた直後は、同僚の銀行員も「どうせ失敗して帰ってくる」と私に言ってきました。精神面で追い詰められましたが、そこは夫を信じて、耐えましたよ。
『釣りキチ三平』ヒットまでは苦難の連続
――矢口先生は単身で上京しますが、その後、勝美さんもお子さんを連れて上京します。それでも、『釣りキチ三平』がヒットするまでは厳しい生活が続いたそうですね。
勝美:4畳半と6畳のアパートで生活が始まりましたが、原作つきの漫画を2本やった後に仕事がなくなりました。夫は絵が上手かったので、成人向け漫画の依頼も来ていたけれど、断っていました。
――生活苦の中でも、矢口先生にはプライドがあったんですね。
勝美:夫はいつも「車で言えばトヨタか日産で描きたい」と言っていたんです。『ジャンプ』からも依頼があったけれど、当時はまだ新しい雑誌だったでしょ。『マガジン』か『サンデー』で描くのが夫の夢だったんです。そうは言っても、生活は苦しいでしょ。ある時、夫がお母さんに弱音を吐いたら、「秋田に帰ってきて百姓をやるか?」と言われていました。
――勝美さんはそんな矢口先生を、どう励ましたのでしょうか。
勝美:私が「原作つきの漫画をやりたくて銀行を辞めたんじゃないんでしょ、描きたいものがあって漫画家になったんでしょ?」と言ったのが、奮起のきっかけになったみたいですね。
――矢口先生が初めてヒットを飛ばしたのが、『幻の怪蛇 バチヘビ』です。この成功が『釣りキチ三平』につながったのですね。
勝美:そうですね。『バチヘビ』の後、マガジンの編集者が3人家まで来て「連載を起こしてほしい」と言われました。私が子守りもしている状態だったのに、編集者が帰らないんですよ(笑)。夫も連載は自信がなかったみたいですが、「やる」と言って、『三平』が始まりました。当初は、ワンクールで終わる予定だったんです。ところが、関西地方から人気に火がついて長期連載になりました。自宅のアパートのほかに仕事場も借りて、生活が変わりましたね。単行本が売れてからは42歳で今の家を建てて、スタッフの取材旅行などもできるようになりました。
――勝美さんから見て、矢口先生が成功した秘訣は何だと思いますか。
勝美:夫はとにかく漫画好きで、漫画が描けるだけで幸せだと思っていたからでしょう。そして、上京するときには周囲の反対があったから、歯を食いしばって頑張れたのかもしれません。アシスタントを見ていると、親と家出して喧嘩してきた人の方が長く続いていましたからね。そして、“おらが村”という、夫しか描けないテーマを見つけられたのは大きかったと思いますし、編集者と喧嘩してでも作品のレベルの向上を図っていました。いい作品を読者に届けようという思いが、本当に強い人でしたね。
故郷を愛し続けた矢口高雄は最高の夫
――勝美さんは今、故郷への想いはありますか。
勝美:西馬音内といえば、「弥助そばや」からは蕎麦を毎年送ってもらって、年越し蕎麦として食べていましたよ。大みそかになると、夫は「弥助そば食うか!」と言っていました。弥助そばやさんがそうだけれど、田舎の人はいい人はいいんだよね(笑)。やっかむ人もいるけれど、応援してくれる人もいる。私は若いころは拒絶反応もいいところだったけれど、年をとったせいか、あの“ねちっこさ”が懐かしいなと思うこともあるよね。
――先日、西馬音内の伝統芸能「西馬音内盆踊り」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。勝美さんも、盆踊りは踊れますか?
勝美:もちろん。4~5歳のころから踊って、本当の盆踊りを会得していますからね。でも、今の盆通りは見たくない。西馬音内以外のいろんなところに盆踊りのサークルがあって、外の人も踊りに加わっているけれど、あの踊りは子どものころから身につけていないと難しいんだよね。1日で上手くなるような踊りではないのに、みんな自己流でやっているでしょう。あれは毎年踊って初めてものになるんです。今みたいな怪しげな盆踊りを許していては、消滅すると思っています。
――勝美さんは故郷に対して辛口ですが(笑)、盆踊りへの強い思いからも、故郷のことを案じているのが伝わってきます。ちなみに、矢口先生は故郷をどう思われていたのでしょうか。
勝美:矢口高雄は、決して地元の悪口を言わなかったんです。私とは大違い(笑)。これは本当にすごいことだと思いますね。もちろん多少の不満はあったことでしょう。けれども、故郷のためならどんな難しい条件でも吞むような人でした。だから、故郷から愛されたんだと思いますよ。「子どもの頃に手塚先生からファンレターをもらって嬉しかった」という話は、何度も口にしていましたから、ファンレターの返事やお礼状は本当にこまめに書く几帳面な人でした。故郷思いで、ファン思い。そんな夫を今でも誇りに思いますね。
インタビューを終えて
髙橋勝美さんへのインタビューは3時間にも及び、当初の予定を大幅にオーバー。諸般の事情で記事ではカットした話題もあるが、語り尽くせないほど様々な話が飛び出した。それにしても、まだまだ漫画の地位が低かった昭和の時代、秋田の田舎町で銀行員を辞めて漫画家を目指すことがいかに冒険だったか。そんな無謀ともいえる挑戦に理解を示し、しっかりと支えた漫画好きの勝美。この2人が出会わなければ、日本漫画史に残る釣り漫画の傑作は生まれなかったに違いない。