電撃文庫を立ち上げた佐藤辰男が若き出版人に伝えたいこと「好きなものがあるのだったら、極めるために起業してみるのも良い」

「電撃文庫」創設者・佐藤辰男インタビュー

好きな世界で新しいことをやってみよう

――今おっしゃられたように、『怠惰な俺が謎のJCと出会って副業を株式上場させちゃった話』は若い人たちによる起業とIPOがテーマになっています。このテーマを選んだ理由は?

佐藤:ひとつには出会いがあったからです。この本を書く上で会計士の方に手伝ってもらったんですが、その方たちが前に商事法務という出版社から『IPO物語――とあるベンチャー企業の上場までの745日航海記』という本を物語形式で書いて出したいというので、構成などをお手伝いしたことがあるんです。そこで、IPOそのものについての知識が身について、これを例えばライトノベル風にしたらどうだろう、「もしドラ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」)のような楽しいストーリーの中に、志を持った若い人たちの成長物語を盛り込めたら面白くなるのではと思ったんです。

――成功だけなら他のジャンルでも描けたと思いますが、起業でありIPOという困難な目標に挑ませたのはどのような理由からですか。

佐藤:いまの若い社会人は、企業に勤めながら強い閉塞感を感じているのではないかと想像しています。賃金は生活給で、企業が個人を成長させることより利益を重視したりといった感じ。そうなった時、ひとつには転職という道があるけれど、自分自身に何か好きなものがあるのだったら、それを極めるために起業してみるのも良いのではないか、あと1歩踏み出すことで違う景色が見えてくるのではないかと思ったことが理由です。今の時代、地道にサラリーマンをやっていても、多くの場合、個人資産はさして増えませんよ。リストラを食らって理不尽な思いをする人もいます。それなら何か好きな世界で新しいことをやってみよう。自分の好きな世界で起業して、人との出会いと時代の波に乗ればIPOもあり得る。そう思い立つきっかけになってくれれば良いと思って書きました。

――とはいえ、一介のサラリーマンが経営者になるというのはなかなか勇気がいることです。ご自身も編集者から経営者になって大変だったのではないですか。その時の経験は小説に盛り込まれていますか。

佐藤:自分はどちらかといえば、運命に揉まれるようにして経営者になってしまいました。雑誌の編集長だったのが、いろいろあってメディアワークスを設立することになって、角川歴彦さんといっしょに会社を立ち上げました。そこで実はIPOを目指していたんです。メディアワークスを作る時に社員から出資を募り、取次さんや書店さん、ゲームメーカーにもお願いして出資してもらいました。その恩に報いるにはIPOするしかないと考えました。僕も監査法人の勉強会に通いました。IPOがテーマに浮かんだ背景には、このこともあるかもしれませんね。

――『怠惰な俺が謎のJCと出会って副業を株式上場させちゃった話』はIPO小説であると同時に出版業界ものでもあります。やはり佐藤さんの経験が活かせる分野だから選んだということでしょうか。

佐藤:KADOKAWAの社史を書いていて、そこでの記述では伝わらないことがあると思ったんです。1990年代の半ば以降2010年代にかけて、出版業界は大きく変わりました。それまでのような出版社の編集者のままでいてはいけないのではと思わせる強烈なものでした。僕の感覚から言えば自己否定を強いられるような経験でした。

――具体的には。

佐藤:戦う相手が変わったんです。昔の編集者時代、僕のライバルは「Vジャンプ」や「ファミ通」や「ファミマガ」でした。同じ発売日に店頭に並んだものを読んで、向こうの攻略法の方が良く書かれていると分かると腹が立ちました。コップの中の戦争だったんですが、それが許されていました。目の前の競争相手と切磋琢磨していれば事足りたんですが、2000年代に入ると、それが許されなくなりました。敵はスマートフォンだったり新しい動画サービスだったり、取引先も書店だけでなくデジタルの電子書店になったりと大きな変化が起こりました。小学館も集英社も講談社も対応はしましたが、KADOKAWAはより激しくデジタルに転換しようと考えて動きました。変化があまりに激しくて、このままではいけないという強い自己否定が伴う苦しい戦いでした。

――小説の中で青山たちが立ち上げた会社に吸収される出版社の描写に、そうした旧来からの出版社の苦悩が表れているように思います。

佐藤:出版の人たちは、これまで黒子意識が強すぎました。エンターテインメント業界の中で、いわゆるIP展開を、自ら権利を持って自分たちの力で展開してもよかった。出版社はなかなか主役になろうとしませんでした。ようやくこの数年、マンガのデジタル対応などに成功し、ゲーム開発などに自ら進出する機運が出てきました。出版の枠を超えて、人とIPを育てようとしているように見えます。

――逆に出版社の外から見れば、なかなか手が出せなかった分野に参入できる大きなチャンスが到来したとも言えます。

佐藤:そうですね。出版関係で新しいサービスを立ち上げて提供し始めた人たちには、楽しい時代がやって来たと思えるでしょうね。この本で、かつては存在した出版業界のヒエラルキーみたいなものを気にしないで生きていけるキャラクターたちを設定して、彼らの活躍を見てもらいたいという気持ちもあったと思います。

――デジタルの世界から来た人には、文化の牙城のような出版業界に入っていって成功できることを教えてくれる小説として、勇気を与えるのではないでしょうか。

佐藤:キーワードはデジタルなんです。絶えざる技術革新は今後も起こるでしょう。今は良くてもそこに居心地良くずっと収まっていることはできません。新しいものが出て来て揺さぶりをかけるようなことが絶えず止まないで起こってきます。その中で出版界にもIT業界にも生き残って欲しいと思いますよ。その手段としてやはりデジタルへの対応をしなくてはいけないでしょうね。現状を追認するだけでなく、その先を考えていこうということです。作中にライトノベルをVRで読むという技術が出て来ます。これはMyDearestを立ち上げた岸上健人さんがやっていたことを見ていて思いついたものですが、作中ではユーザーのことを考えてどんどんとゲームの方へと行ってしまいますし、MyDearestもVRゲームをリリースして話題になりました。常に変化している状況に合わせて変わっていく様子を見て書いたところがありますね。

――岸上さんを始めいろいろな方に取材したことがあとがきに出て来ます。

佐藤:メタバースプラットフォームを展開しているクラスターの加藤直人さんに起業の話を、作家の津田彷徨さんには投稿小説の話を聞きました。講談社から星海社を立ち上げた太田克史さんにも話を聞きに行きましたよ。勉強になりましたね。メディアワークスを離れてストレートエッジを立ち上げた三木君もそうです。起業をして楽しそうに充実した仕事をやっている人と付き合うのは楽しいですよね。あとは、会計士の方々からも刺激を受けました。会計士というと、伝統ある大企業の監査だけが仕事のように思われがちですが、IPOを手伝ったりベンチャーを育成したりするようなこともやっているんです。そうした人たちの頑張りを、作中で河原崎さん(買収した出版社のオーナーで本職は会計士)とか、ごこたいちゃんの言動に匂わせました。

――出版人も会社を出て起業すべきですか?

佐藤:ぼくは出版業界、出版社の風土が好きですから、そうは思いません。会社に留まってやりがいのある仕事と収入が得られるならそれでいいと思います。しかし、停滞と閉塞を感じたら、起業もあるでしょう。出版業界では、小説投稿サイトが盛り上がったり、縦読み漫画(ウェブトゥーン)のようなものが出て来たりと新しい動きは出て来ていますが、新しいプラットフォームが次々と登場してくるゲーム業界のようなイノベーションはなかなか起きてきませんからね。KADOKAWAは、デジタルを意識したり、UGC(ユーザー生成コンテンツ)を取り入れたりしてエンターテインメントの世界で技術革新に挑んできたいい例だったかもしれません。

――若い社会人にこういう選択肢があると示唆してくれる小説ですし、ある程度年齢がいった人にも2度目の人生に挑んでみようという勇気を与えてくれる小説だという気がします。佐藤さんご自身はこの後、何かされるのでしょうか。ひょっとして起業とか……。

佐藤:いやいや。今はまた小説が書きたいですね。何を書くのかという構想はあります。今回の本が評価してもらえたら、次もその次も書いていこうと思っています。もう70歳ですから、好きなことをやらせてもらいます。

――次回作、期待しています。本日はありがとうございました。

■佐藤辰男(さとう たつお)
1952年、静岡県生まれ。ゲーム雑誌「コンプティーク」を創刊するなど多くの雑誌の編集者、編集長を務め、角川メディア・オフィス取締役に就任。以後、メディアワークス社長・会長、角川ホールディングス社長、メディアリーヴス社長・会長、KADOKAWA・DWANGO(現KADOKAWA)初代社長・2代目会長、角川ドワンゴ学園初代理事長を歴任。現在はコーエーテクモホールディングス社外取締役。

■書籍情報
『怠惰な俺が謎のJCと出会って副業を株式上場させちゃった話』
佐藤 辰男 著
発売日:12月21日
価格:1,650円
出版社:KADOKAWA

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