批評家・北村匡平が、椎名林檎論に取り組んだ理由「彼女の音楽は適切な言葉で評価されてこなかった」
女性アーティスト像を刷新した存在
——楽曲の構造、歌唱などについて詳細な分析をしていると同時に、「椎名林檎論」では、彼女自身の発言やスタンスの変遷についても記されています。
北村:椎名林檎が登場したのはぼくが高校生のときですが、当時から「天才的だ」と感じていました。彼女の存在はあっという間に“現象”になりましたが、一方では「ゴーストライターがいるのではないか?」と言われたり、過激なパフォーマンスばかり触れられたり、なかなか音楽的に正当に取り上げられることはなかった。そのことに対する憤慨は彼女自身もいろいろな媒体で語っていますが、振り返ってみると、当時の日本社会にあったミソジニー(女性嫌悪)的なところが反映されていたようにも思います。つまり椎名林檎は、00年代以降の男性中心主義的な社会状況のなかで戦ってきたアーティストでもあるんですよね。特にアイドルとファンの関係に顕著ですが、日本社会には未熟なものを愛でる、未完成なものを愛する傾向がある。そんななかで彼女は、大衆に迎合せず、成熟した作品を届け続けてきました。しかも作品を発表するごとに表現を更新している。東京事変を解散させた後に発表した「日出処」「三毒史」も素晴らしい作品ですが、それに見合った評論はやはり、ほとんどなかったように思います。
——椎名林檎の発言や姿勢は、同時代を生きてきた女性にもかなり影響を与えているのでは?
北村:そうだと思います。80年代後半あたりから、女性アイドルが自らをアーティストとして見せようとする傾向が強まりましたが、椎名林檎と宇多田ヒカルはそれまでの女性アーティスト像を完全に塗り替えた。作詞や作曲を手がける人はいましたが、アレンジやプロデュースも含め、音楽を深く理解して自分でやってしまう作家性の強いアーティストはそれまでいなかったので。椎名林檎は2010年代前後、アルバム『三文ゴシップ』(2009年)の頃から「殿方たちは黙っていろ」というニュアンスの発言をするようになりましたが、いろいろと思うところがあったのでしょう。あるテレビ番組で「女性にしかわからないことがある。私は彼女たちに寄り添う楽曲を作っていきたい」という趣旨の発言をしたことがあるのですが、それも素晴らしいなと思いました。「なんで自分は男性なんだろう?」と悲しくなった……というのは冗談ですが(笑)、彼女が強い意志を持って活動していることが伝わってきました。誰かに従属したり追従したりすることなく、自ら開拓し、革新的な音楽を生み出し続けている姿は、現在も多くの女性の憧れですし、生き方にも影響を与えているのではないでしょうか。それは男性アーティストのコラボレーションにも表れていると思います。宮本浩次、トータス松本などの良さを見抜いて、楽曲に落とし込む能力もすごいので。最近はAdoに目を付けて、見事に彼女の豊かな表現力を引き出したと思います。
——楽曲「行方知れず」を提供し、「二十五年前、拙作無罪モラトリアム(編注:ファーストアルバム)を出してしまう前にこの響きに出会せていたら、ぜんぶ彼女に歌ってもらっただろうとも思います」とAdoのボーカルを絶賛していますからね。Ado自身も椎名林檎からの影響を公言しています。
北村:藤井風も椎名林檎の楽曲をカバーしているし、オリジナル楽曲を聴くと、明らかに彼女の影響を受けているだろうなと。やはり下の世代への影響はきわめて強いですね。
「乱れる」イメージとアナーキーな魅力
——改めて椎名林檎の音楽に向き合い、分析することで、北村さん自身も新たな発見があったのでは?
北村:めちゃくちゃありましたね。これまで単に「いい曲だな」と思いながら聴いていた曲を真剣に分析してみると、「なるほど、こうなっていたのか」「こういう音が入っていたのか」と新発見ばかりで。たとえばアルバム『大人(アダルト)』に収録されている「修羅場」のアルバムバージョン、シングル「能動的三分間」にしても、「これまではまったく捉えられていなかったな」と実感しました。
映画もそうですが、優れた芸術は観れば観るほど、聴けば聴くほど、新しい発見があります。(「文學界」での)連載中にSNSなどで反応してくださる方が大勢いたことも嬉しかったですね。連載を通して新たな発見を提示するたびに、いろいろな感想が届いたり、「改めて聴いてみよう」という方もいて。それが執筆のモチベーションにつながったところは非常に大きいです。SNS時代ならではの経験でした。
——“乱調の音楽”というサブタイトルについては?
北村:「文學界」編集長の丹羽健介さん、最初の担当編集者だった清水陽介さんと打ち合わせして、いよいよ「椎名林檎論」を書くことになったときに、ふと“乱れる”というイメージが湧いてきて。彼女の楽曲は緻密に組み立てられていて、きっちり整っている印象がありますが、同時に生々しい身体性が強く感じられる。東京事変も既存のルールや法則をぶち壊し続けてきたし、直感的に“乱れる”という言葉が浮かんだんだと思います。連載を終え、書籍としてまとめたときに、改めて“乱調”がしっくりくるなと。本では無政府主義者の大杉栄まで遡って引用していますが(“美はただ乱調に在る”)、初期の椎名林檎にはアナーキーな印象もあったし、最初の直感に従ったのはよかったのかなと思っています。
——「椎名林檎論」を書いたことで、北村さんの研究分野も広がるのでは?
北村:方法論としては、『椎名林檎論』と去年出した『24フレームの映画学——映像表現を解体する』は共通しているところがあって。対象はまったく違いますが、分析のアプローチは非常に近いんですよ。『24フレームの映画学』は蓮實重彥の「表層批評」をどう乗り越えたらいいのか? というテーマがあったのですが、デジタル時代における新たな方法論を実践できた。もちろん気に入らない人からは批判されましたが、『椎名林檎論』でも、そのやり方は有効だったと思っています。何よりも音楽評論は自由度が高くて、楽しいですね(笑)。映画評論だけを続けていたら、息が詰まっていたかもしれません。
——ちなみに「もし椎名林檎さんがこの本を読んだら?」という想像はしていますか?
北村:していないですね。彼女が大の批評嫌いなのは有名ですし、連載中もそこは意識していませんでした。そもそもぼくは、椎名林檎その人ではなく、彼女が作る音楽が好きなんですよ。創造性を感じさせる楽曲ばかり次々に送り出してくるので、いつも作品を前に呆然と立ち尽くしています(笑)。個人的には今回、彼女が創り出す音楽に真正面から向き合って、作家(椎名林檎)に接近できた実感があるし、書いてよかったなとは思っています。
——次に評論するとしたら、どんなアーティストでしょう?
北村:先ほども話に出た藤井風はいつか必ず書きたいと思って準備しています。まだデビューして短いので10年後くらいになるかもしれませんが。あとはMr.Childrenと宇多田ヒカル。ミスチルも宇多田ヒカルも椎名林檎と同じく、音楽的な批評がなされていない印象がありまして。きちんと分析されれば、きっとこの20〜30年のJ-POP史がくっきりと浮かび上がってくると思います。