管啓次郎「旅と読書は同じ形をしている」エッセイ『本は読めないものだから心配するな』への思い
比較文学研究者で詩人の管啓次郎氏が2009年に刊行したエッセイ集『本は読めないものだから心配するな』(左右社)。刊行当時も話題となった本だが、2021年にちくま文庫より文庫化され、再び注目を集めた。本書で管氏は「本に『冊』という単位はない」としながら、自身が手にした本から得たエッセンスや旅の経験をシームレスに綴っている。
読むことについて語る時は「本にはそれぞれの地形と気象がある」といったように、旅をしながら土地を見つめる眼差しと重なる。そして旅も本と同様に「一回」きりの経験に閉じたものではないという。その真意はどこにあるのか。管氏にとっての読書と旅について話を聞いた。(小沼理)
本に「冊」という単位はない
――『本は読めないものだから心配するな』。タイトルに励まされるような気持ちで手に取った人も多いのではないかと思います。表題のエッセイで、管さんは「本に『冊』という単位はない」と書いていますね。
管:「本は冊という単位では数えることができない」というのが僕の基本的なテーゼです。一冊というのはあくまでも仮の姿で、それぞれの本はいろんな方向に発展していく余地がある。ある本のあるページは、まったく関係なさそうにみえる別の本のあるページと地続きになっている。人間が関与しなくても、本は本同士で結びつき、解体と再構成を勝手に実践しているわけだから、我々はただその森の中をどこまでも行けばいい。
これは別に僕の独創ではなくて、昔からある考え方をわかりやすく言い直しただけです。僕は学生のころにはフランス系の文学理論に全面的に浸っていたから、「本」ではなく「テクスト」という考え方が基本にあります。テクストとは運動の中で人が発見し編み上げられていくものです。それは一つ一つの本の中だけにあるわけでもないし、一人の著者という単位で数えることもできません。言語そのものの自己組織化を読みながら発見して、いかに自分自身がそれに接続されていくかという考え方です。
――たしかに読んでいて、ある話が別の話へと次々に接続されていく感覚がありました。
管:そうそう。それと、地理的にしたいんですね。
――地理的ですか。
管:本にはそれぞれの地形と気象があると思うんですね。たとえば、明治大学のこの校舎には屋上庭園があって、ほったらかしにしているから雑草が生えている。ところが、草の種類は毎年変わっていきます。できた時はちょろちょろっとしか生えなかったけど、どこかから飛んできた雑草が根を張って、育って、倒れて、また生えてを繰り返すうちに、だんだん種類が変わってくる。そういう自然のプロセスが、われわれが気づかないだけでどこでもあるわけでしょう。
同じように本の世界にも自然のプロセスがある。そう考えながら読んでいると、本の中にある地形がはっきりとわかってきます。難しいことではなくて、誰だってぱっと本を見て「これはものすごく高い山みたいだな」「危ない崖っぷちがあるな」と思うわけでしょう。その感覚を言語化しながら、自分なりの地形として捉えていく。どういうルートで歩いていくか。そして地形があって気象があると、当然ながら独特の植物や風景があり、よく見るといろいろな動物も住んでいます。僕は本との付き合いでそこまで行きたい。
本を情報を得るためだけの道具みたいに思っている人が多いけど、僕はそういう考えには本当に反対で。本というのは、一つ一つの、そこだけのかけがえのない小さい風景を作っていて、いかに自分がそこに入って行って学ぶことができるかが大切でしょうと、声を大にして言いたい。それができるかどうかによって、世界や歴史の見方がまったく違ってくるはずです。
――最近の本やその読まれ方をみていて、短期的に必要な情報や楽しさを得るだけの読書が増えていると感じるのでしょうか。
管:今はみんな安易な、すぐ読める本ばかり読んでいますよね。でも、読書というのはそういうものではない。朝起きてすぐ、一番コンディションがよく精神も充実している時に、難しい本を読まないといけない。難しくて理解できないような本を少しずつでもずっと読み続ける習慣をつくることが大切です。手に取りやすい、読みやすい、面白い本だけ読んでいてはダメ。
言葉を自分で発明した人は誰もいなくて、使いたい言葉はどこかから借りてこないといけない。どこにあるかと言えば、それは読めない本の中にある。そこからどう自分の使える言葉を持ってくるかは、狩猟採集の感覚と一緒です。自分が生きるためのものをいかにとってくるかという狩猟採集と、同じレベルで読書を考える必要があるでしょう。
僕が大きな示唆を受けている一人に、ヘンリー・デイヴィッド・ソローというアメリカの思想家がいます。代表作『ウォールデン 森の生活』にはソローの読書論があって、今話した「難しい本を読む努力をしよう」というのは彼が提唱していることですね。