日本で神の像が作られなかったというのは本当か 目には見えない神秘が仏像の美を生み出した

巨大な仏像はなぜ造られたのか

 仏像は如来(ブッダ)や菩薩の姿を表したものであるが、通常の人間を超えて非常に大きく作られる例が多い。

 下の写真は中国の龍門石窟(りゅうもんせっくつ)の磨崖仏(まがいぶつ)である。この大きな石像は北魏(ほくぎ4~6世紀)によって造られた。鮮卑(せんぴ)という遊牧民の拓跋(たくばつ)部族の王が中国北部を征服して皇帝を名乗ったとき、その皇帝は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の化身として漢民族の上に立ち、巨大な仏像を造ったのである。

龍門石窟の毘盧遮那仏像 北魏の孝文帝が造立した。写真/フォトライブラリー https://www.photolibrary.jp/
龍門石窟の仏像 写真/フォトライブラリー https://www.photolibrary.jp/

 東大寺の大仏も毘盧遮那仏の像で、同様の意味をもつ。奈良時代の正史『続日紀(しょくにほんぎ)』にある聖武(しょうむ)天皇の「大仏造立の詔(みことのり)」に「国中の銅(あかがね)を尽くして像をつくる。天下の富を持つのは我である。天下の威勢を持つのも我である」というふうに書かれている。

 この「大仏造立の詔」は743年に近江紫香楽宮(しがらきのみや)で発せられた。その前の740年に九州で藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が起こり、奈良の朝廷も混乱して、聖武天皇が平城京を出て遷都を繰り返していた時期である。天皇の地位も権威も安定したものではなかった。大仏造立の工事が紫香楽宮で始まった時期には周辺の山林で放火とみられる出火が相継ぐなど、反対する勢力もあった。

 けっきょく、平城京に戻って造立されることになったのだが、その過程で官位・官職を得ることを願う豪族たちの寄進や行基(ぎょうき)に率いられた民衆が大仏造立の功徳(くどく)にあずかることを願って大挙して参加した。それは天平のバブルといえる好景気をもたらし、聖武天皇は絶大な権力を手にしたのだった(詳しくは拙著『平城京全史解読』学研新書参照)。

仏の姿は目に見えない虚空に広がっている

 東大寺の大仏の形は梵網経(ぼんもうきょう)という経典に「我(毘盧遮那)は今、釈迦の姿に毘盧遮那仏を現じて蓮華台に坐す。周囲をめぐる千華の上に、また千の釈迦を現ず」などと説かれていることによる。

 仏像や仏画は経典に説かれていることが元になっているのだが、仏教美術に非常に大きな影響を及ぼしたのは観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)であった。この経題は無量寿仏すなわち阿弥陀仏を観ずるという意味で、無量寿仏や観音菩薩、極楽浄土のようすなどが具体的に記されている。たとえば、無量寿仏の姿が次のように説かれている。

「その仏の身体は、天上界でももっとも高貴な黄金の輝きを百千万億に倍したよりも尊く輝いているのです。無量寿仏の身体の高さは六十万億那由他恒河沙由旬(なゆた ごうがしゃ ゆじゅん)です。ガンジス川の砂の数を無限に倍した数ほどの由旬ですから、人びとの用いる長さの単位では数えることができません。はるかな高みに仏の身体はそびえて、眉間の白毫(びゃくごう)は右回りに渦巻き、その大きさは須弥山(しゅみせん)を五つ合わせたほどです」(拙著『全文現代語訳 浄土三部経』角川ソフィア文庫)

 「由旬(ゆじゅん)」は数の単位で15kmほどという。

 現在、大きな阿弥陀如来像として有名なのは鎌倉大仏(像高約11.4m)や牛久(うしく)大仏(像高約100m)である。牛久大仏はブロンズ立像としては世界最大であるそうだが、阿弥陀如来は真実には無数の由旬の大きさであるというのだから、とうてい形に表すことはできない。

 また、仏像は本来、金色(こんじき)に造られるもので、その輝きを通して、無限の虚空(こくう)に広がる仏の姿を心に観じ、礼拝するものであった。

時代別に見れば仏像の魅力がわかる

 『日本の美仏図鑑』には時代別に国宝・重文クラスの仏像の迫力ある写真が多数掲載されている。

 それらの仏像は、けっして、単なる美術品ではない。今も寺院に置かれて礼拝されているものである。

 そして仏像を造った仏師たちは、目には見えない仏の姿を、なんとか形に表そうとして技法を駆使してきた。その技法は時代を経て発達してきたので、時代をたどって見ることによって、いわば心の歴史をたどることができる。

 本書は自身も仏師である長谷法寿・種智院大学教授によって、技法の説明もていねいに記されている。

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