『ちむどんどん』から浮かび上がる詩人・中原中也の魅力 なぜ現代人の心に響くのか
中原中也の生涯とは
近代詩人・中原中也は、1907(明治40)年4月29日、現在の山口市湯田温泉に生まれ、1937(昭和13)年10月22日、鎌倉で30歳の生涯を終えるまでに、350を超える作品を遺した。最も広く知られる詩であろう「汚れちまった悲しみに……」は1930(昭和5)年、23歳の若さで発表したものだ。
才能の開花は早く、小学校高学年より短歌を制作し、雑誌や新聞の歌壇に投稿を開始。その後は文学に熱中するあまり、中学3年で落第。1923(大正12)年、16歳のときに立命館中学への転校のために京都へ移り、高橋新吉や富永太郎の影響を受けて、詩人としての道を歩みはじめる。1925(大正14)年、上京。小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らと知り合い、1929(昭和4)年、河上ら友人たちと同人誌『白痴群』を創刊。1934(昭和9)年、第一詩集『山羊の歌』を出版したことで詩壇に認められるに至った。その後は『四季』、『歴程』、『文学界』などの雑誌にも詩を発表。また、フランス詩の翻訳も手掛け、訳詩集『ランボオ詩集』を刊行している。中也自らまとめ、小林秀雄に託した第二詩集『在りし日の歌』は、中也が亡くなった翌年の1938年(昭和13)4月、刊行された。
友人で批評家の小林秀雄は、哀悼詩「死んだ中原」で次のように綴っており、中也の本質をよく捉えているように思う。
「君の詩は自分の死に顔が/わかつて了つた男の詩のやうであつた/ホラ、ホラ、これが僕の骨/と歌つたことさへあつたつけ」 ※「死んだ中原」冒頭の抜粋
現代でこそ教科書や教育番組でも親しまれる中也の詩だが、生前は一部の人々からの高い評価とは裏腹に、一般にはあまり知られない存在だったといわれている。
中也の詩が多くの人々に読まれるようになったのは戦後のこと。『ちむどんどん』の時代背景から辿ると、重子は選書や文庫で中也の詩を読んだ世代にあたるだろうし、息子・和彦は教科書を通して中也の詩に出会った世代と重なる。
「吾子よ吾子」【ちむどんどん】(以下省略)7月25日放送回
1935(昭和10)年6月6日制作。生前未発表。
長男・文也が生まれた翌年、父性あふれる時期の作品。吾子=我が子と呼びかけているのは、まさしく文也だろう。『ちむどんどん』では、重子が息子・和彦への想いを重ねるように読み上げる。
「修羅街輓歌(しゅらがいばんか)」7月28日放送回
「白痴群」第5号(1930<昭和5>年1月1日)、「日本歌人」昭和9年11月号(1934<昭和9>年11月1日)に発表された後、詩集『山羊の歌』(1934<昭和9>年12月10日 文圃堂書店)に収録。
芸術家として生きることに徹していた中也にとって、一般社会は“修羅街”であった。四節の詩の中では、「序歌」で幼少期の美しい思い出、「Ⅱ 酔生」で傷つき果てたいまの自分、「Ⅲ 独語」で生きるべき道、「IIII」は生きる悲しみや苦しみを最も深く歌っている。『ちむどんどん』では、重子が第四節を朗読している。
「別離」7月28日放送回
1934(昭和9)年11月13日制作。生前未発表。
五節から成る詩で、慣れ親しんだ土地や人から離れて、故郷に帰っていくさまを、激しく、繊細に歌い上げていく。『ちむどんどん』では、重子の「修羅街輓歌」に交差するように、息子・和彦が読む。
「子守唄よ」7月28日放送
「新女苑」昭和12年7月増大号(1937<昭和12>年7月1日)に発表。
長男・文也を2歳で亡くした後の深い悲しみが投影された作品。母親が歌う子守唄が主題にありながら、そこには子どもの姿がない……。『ちむどんどん』では、和彦の「別離」のシーンから、重子が「子守唄よ」を読む場面へと転換する。
人は詩を読むとき、詩の中に自分自身を見る。そこに浮かび上がるのは、ひとつの答えではなく、さまざまな境遇や悩みを抱えた人の数だけの解釈だ。
『ちむどんどん』の登場人物が、中也の詩に自らを投影して慰められるように、人々の心に寄り添い救い上げてくれる普遍的な魅力が、中也の紡ぐ言葉にはある。
だからこそ中也の詩は、時代を超えてなお、多くの人々の心を惹きつけてやまないのだろう。
『ちむどんどん』においては、中原中也記念館(山口市湯田温泉)の館長も制作段階から携わっているそうだ。
物語が進む中で、この先どんな詩に出会えるのか、どのような意味を内包し表現されるのか。中也の詩に注目すると『ちむどんどん』がより魅力的になるはずだ。