【鎌倉殿の13人】徳川家康の時代でさえ無視できなかった「源氏の棟梁」という亡霊のようなキーワード

「源氏の棟梁」に織田信長や徳川家康も影響を受けていた

 日本史は結果論として、鎌倉幕府成立以降、多少の断絶はあっても長く武家政権が続くものとなった。そして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれるのは、その創始にあたる鎌倉幕府の成立期ということになる。

 歴史は過ぎ去った事柄を扱うので、現在を生きる者からすれば、「源氏の棟梁」である源頼朝が勝ち残り、「征夷大将軍」になったのは、「まあ、そりゃそうだ」と思える。でも、それは後の室町幕府や江戸幕府が前例を踏み続けたから、そこに価値があると思えるだけ。

 「鎌倉殿」の時代は、まだその価値が確定していない。そこに、登場人物たちの悩みと葛藤があり、物語的おもしろさとなっていく。

 ちなみに、現在では、大工などに使われることの多い「棟梁」という言葉だが、要するに頭領であり、リーダーを意味した。

武士=農場経営者・従事者・戦士

 武士の起こりは平安時代のことだ。当時、都の朝廷で実権を握っていたのは藤原氏であり、そこで官職を得て栄達していくことは、かなりの狭き門だった。

 あぶれた人たちは地方の役人の職を得て、そこに赴任していく。赴任した先で田畑を開墾し私有地として資産にし、いずれ土着する。それがひとつのライフスタイルになった。

 だが、それぞれ私有地なので保障がない。力づくで土地を奪いに来られると、力づくで応じるしかない。農業経営者であり、従事者でもあり、さらに戦士である、という武士が生まれる。

 つまり、土地をめぐる紛争が武士を形づくったと言っていい。わかりやすいのが承平・天慶の乱で知られる平将門(たいらのまさかど)だ。

 実は、都で職にあぶれるのは臣下だけでなく、皇族であっても同じだった。皇位継承の可能性が低い皇族は「平」や「源」という姓を与えられて、臣下として地方に赴任し、同じように開墾し、私有地を増やしていた。

 そして、桓武天皇の血筋である高望王が「平」の姓を賜って坂東に赴任し、その孫にあたるのが将門だった。もう、3代目なので武勇抜群の坂東武者として育っていた。だが、そこで彼の父である平良将(たいらのよしまさ)が死ぬ。土地の相続問題が起こり、将門は叔父たちに不利を押し付けられる。

同族同士での武力闘争は坂東武者の有り様

 しかし、都から遠い坂東の地における正義は、権威でも親族の序列でもない。ただ武力だった。豪勇である将門は、鍛えた弓馬の術で次々に叔父たちを屠(ほふ)った。

 このとばっちりを受ける形になったのが、清和源氏初代の源経基(みなもとのつねもと)。まだ武門に慣れない彼は将門に蹴散らされ、都に逃げ帰り、朝廷へ泣きついた。

 また、後の平清盛の先祖にあたる平貞盛(たいらのさだもり)は将門のいとこにあたるが、これも対将門の戦闘においては押されっぱなしの印象だ。

 とにかく、将門の武名は関東に響き渡る。すると、それぞれに紛争を抱える武士たちが、その裁決を将門に委ねようと集まってくる。裁定されると、将門の強大な軍事力を前に相手も文句を言えないからだ。後の所領安堵の原型がすでにある。彼は「武家の棟梁」といえる存在となったわけだ。

 だが、将門の勢力は自壊的に滅び、その結果、平貞盛、源経基らは坂東の地に確固たる地盤を築いていく。そして、その子孫たちが「鎌倉殿」の登場人物たちには多い。

 視聴者の中には、やたらと同族同士で武力闘争になる描写に驚いた人もいるだろうが、それはある意味、坂東武者の有り様だったわけだ。

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