【鎌倉殿の13人】徳川家康の時代でさえ無視できなかった「源氏の棟梁」という亡霊のようなキーワード

「源氏の棟梁」に織田信長や徳川家康も影響を受けていた

武士の行動原理は、ただ自分の土地を守ること

 そういう時代背景のようなものを感じながら、「鎌倉殿の13人」を楽しむとき、なかなかよいテキストになるのが、『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(坂井孝一・NHK出版新書)だ。

 この時代を生きた源頼朝や北条政子、北条義時といった人々の伝が人物ごとに立てられている。読みたい部分から読むことができる形だ。しかも、著者は大河ドラマの時代考証担当なので、ドラマと解釈の違いも少ない。すでに物語上は退場した人物も多いが、それらの人を振り返り、歴史上の事績を知る上でも有用だろう。

 北条義時が生きた時代。「源氏の棟梁」はまだ、その価値を決めてはいなかった。武士の行動原理は、権威や主家を守るものでもなんでもなく、ただ自分たちの土地を守ることだった。

 だからこそ、源頼朝は坂東武者の所領を安堵(自らの名において確定)した。武士たちは果てしない私闘から解放されたことになる。それが御恩であり、それに報いるのが奉公。これが鎌倉幕府の統治原理だった。

 そして、その権威を補完するために、頼朝は何でもいいから将軍号を朝廷に求めた。日本にもたくさんの将軍号があったが、朝廷はちょうどいい「征夷大将軍」を頼朝に与えた。

 こうして、「源氏の棟梁」「征夷大将軍」「関東」という武家統治のキーワードが生まれた。

 だが、北条氏の価値観では「征夷大将軍」と「関東」こそがあればよく、「源氏の棟梁」は重要事項ではなかった。こうして、源氏の将軍は3代で途絶える。

 しかし、後に鎌倉幕府が揺れると、北条氏への不満が、このキーワードに亡霊のような価値を持たせる。

 「征夷大将軍は源氏の棟梁」

 新時代を求める武士たちは、そこに集いはじめる。

織田信長や徳川家康にも影響を与えた「源氏の棟梁」

 源義家の子、義国の血流である足利尊氏が都の六波羅探題を倒し、同様の血統背景の新田義貞は坂東武者を糾合し、鎌倉を滅ぼした。

  そして、南北朝の戦いの中、尊氏は「源氏の棟梁」の看板のままに、鎌倉幕府の制度を踏襲し「征夷大将軍」となった。ただし、畿内の争乱が激しすぎたため、鎌倉に拠ることはできず、室町幕府は都を拠点とするしかなかった。

 そして、この価値観は戦国化していく時代にあっても意味を持ち続ける。近年の研究では、本能寺の変にも、亡命した将軍、足利義昭の影響を指摘するものも多い。

 織田信長さえ、そこから離れて生きられなかったとも言える。

 だから、徳川家康は新田義貞の家系に自分をつなげた。事実は別にして、自身が「源氏の棟梁」であった方が、「征夷大将軍」をやる上で、何もかもスムーズにいく。しかも、拠点は「関東」の江戸だ。経験豊富な家康が利用しないのがおかしい。家康は頼朝を丸ごとなぞったわけだ。

 これもあって、徳川氏は約260年の治世を得たのだから、「源氏の棟梁」というキーワードは、なかなかどうして重要なのだ。

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