乗代雄介が語る、物語の奇跡を許すこと 1尋の苦悩を超えた『千と千尋の神隠し』のような感覚を

乗代雄介が語る、最新作への思い

『千と千尋』の異世界、『パパイヤ・ママイヤ』の干潟

――『パパイヤ・ママイヤ』はアル中の父親が嫌いなパパイヤと、芸術家の母親に複雑な感情を抱くママイヤという二人の17歳の少女が主人公です。10代特有の悩みが描かれつつ、明るい作品になっていますね。 

乗代:暗さを忘れさせたいという考えがありました。だから今回、パパイヤとママイヤはそれぞれ学校や親との関係で色々な気持ちを抱えていますが、まったく深く掘り下げてはいません。 

 こうした物語を書くのに、小櫃川河口干潟という場所がすごく重要でした。この干潟は入り口が一つだけで、フェンスが立ってるんです。夏だと草が生い茂っていて、木々が天を遮っているトンネルみたいなところを通る。それから幅の狭い葦の間の道を10分ほど歩いて、ようやく干潟に出られます。『千と千尋の神隠し』の異世界みたいな、ゲートをくぐってたどり着ける非日常的な場所なんですね。 

 今作では、すごく単純に言うと「奇跡を許す」書き方をしました。今までも許してはいたんですけど、もっと全開の、現実のことを全部なしにするぐらいの書き方というか。まさに『千と千尋』のような感覚ですね。

――詳しく教えてください。 

乗代:千尋は両親と新しい家に引っ越す途中、親の暴走で変な場所に迷い込みます。もともと千尋は引っ越しに不安を感じているし、憂鬱や感傷もあって、そんなにいい子には見えないんですよね。でも、トンネルをくぐった先の世界ではいい子すぎるくらいのいい子に見えて、がんばる。それを「成長」と言っている考察や感想をよく読むんですけど、僕はそうは捉えていなくて。 

 千尋は名前を取られて「千」になりますが、彼女が失った「尋」という字は、両手を広げた時の指先から指先を基準にした長さの単位のこと。要はあの異世界では、自分の手の届く範囲を奪われた状態で過ごします。それから「尋」は主に水深をあらわすのに使われるので、「深さを失う」ということでもある。最近はそれほど聞かなくなりましたけど、人が「深いな~っ!」って言う時の浅さってあるじゃないですか。その程度の深さで、いつも人は悩んでいるんですよね。自分の手が届く範囲の距離と深さにしか悩みはない。 

 純文学と呼ばれるものを読んでいると、その「1尋」の苦悩が描かれていることが多いです。その苦悩には社会的な構造が根底に隠されていて、それを暴いて良くしていこう、考えていこうという流れもずっとある。それは非常に大切だと思う一方、1尋の内側では、現実的な人間関係や諸問題に阻まれて、「いい人間であろう」という気持ちが、適切な言葉が見つかりませんが「抑圧」されているように感じます。そこで何かをしている限りは理想について考えたり、がんばったりすることができない「現実」というものがあるんですね。千尋でいえば、あの両親に対して、「いい人間であろう」とすることによって対抗するのはなかなか難しいでしょう。 

 その「現実」から解き放たれるのが、あのトンネルの奥のような場所です。僕が親しんできた児童文学が描いてきた世界であり、おこがましいですが、『パパイヤ・ママイヤ』の干潟でもある。ここでなら「いい人間であろう」とすることができる、そんな場を衒いなく描くのが、奇跡を許すことでした。 

――「トンネルの奥」で過ごした時間は、どう現実に作用するのでしょう? 

乗代:そこでの経験のほとんどは、現実に持ち帰ることはできません。千尋が異世界から帰ってきた時は来た時と同じ様子に戻っているように、1尋の中で覿面に作用するような種類の経験ではないんです。でもだからこそ、その経験が心の底で抑圧に作用して、どこかで自分を救うかもしれない。 

 ママイヤは写真が好きで、小説の中でもことあるごとに撮影しています。今回、写真は「色褪せるもの」の象徴としてあります。黄色が作品のモチーフになっているのも、鮮やかで目を引く色でありながら、一番色飛びしやすいからです。 

 素人が写真を撮る時は「これを思い出に残そう」みたいな感覚がありますけど、その時その場を全部記録することは到底できないじゃないですか。どうしても、むしろ残そうとすればするほど、色々なことが抜け落ちてしまいます。だけど残らないことがダメなわけじゃなくて、儚いものは儚くていいし、思い返した時に夢としか思えない時間があっていい。あとに残るかどうかではなく、いい人間であろうとしたり奇跡を信じたりした、ただそれが「あった」ということだけが大事で。そういう、ともすればコスパの悪い救いで社会が満たされてほしいと思っているんですよね。それを豊かとか希望とかいうんじゃないかと。「現実」に不満があったとしてもね。 

変わっていくならどう書いてもいい


――乗代さんの小説には10代の主人公がよく登場しますね。また今作や近作の『旅する練習』や『皆のあらばしり』では、日常生活の外側にいる人物との、限定的な状況での密接な関係を描いています。 

乗代:10代を描くのは、僕自身が「自分の手の届く範囲のものごとに関わらない」と決めたのが17歳の頃だったからかもしれません。関係の描き方については、僕には「相手の中に踏み込んでこそ深い関係だ」みたいな感覚があまりありません。あっけなく終わってもいい関係のほうが性に合うというか、その距離感でしかありえないことがあると思っているんですよね。 

 これも17歳の頃のことなのですが、当時僕は千葉県柏市の高校に通っていました。柏駅からバス通学だったのですが、「手の届く範囲に関わらない」という気分がすごく強かったし、思春期なので、混んでいるバスのいろんな話が聞こえてくる状況がしんどかったんですね。なんとかのんびり通いたいなと考えて、一つ手前の南柏駅に自転車を置いて、学校の近くの公園まで乗って通学することにしました。遠方からの自転車通学はダメだったんですけど、まあ、知らないよということで。 

 1週間くらいそうして快適だったんですけど、ある朝行ったら自転車がない。誰かに盗まれたみたいでした。参ったなと思っていたら、いつも近くに駐められてた自転車に乗った人が「盗られたの?」と声をかけてきて。話をしていたら、「自分はこれから電車で会社に行くから、これ使っていいよ」と言うんです。それで鍵の番号を教えてもらって、「サドルの高さも合ってんな」みたいな。つまり、朝その人が南柏駅に置いた自転車で、僕は学校に行って帰ってくる。その人は僕よりも帰りが遅いから、同じ場所に置いておけば乗って帰ることができる。そういう生活が2、3ヶ月続きました。 

 その人と会ったのは最初の一回だけです。ある時から空いたバスに乗れるようになったので、僕が勝手にやめてしまいました。いつまで僕が乗っていると思って過ごしていたのかなとか、自転車の鍵の番号も変えなかっただろうなとか考えます。その時は普通に受け入れていたけど、今考えるとなかなかない経験ですよね。その人と普段から関わりがあったらまた違っていたと思います。日常的に接点がないからこそ相手を100パーセント信頼できて、その時、その場にしかない感情とノリが可能にさせるものがあるというか。人はそういうものだと思って生きていて、その実感に支えられて小説を書いているのだと思います。 

――では、人を書く上で大切にしていることはありますか? 

乗代:場と出来事があれば、人間はどうとでもなると考えています。「人を書く」という思いはないですね。他の作家さんがどう思っているかはわかりませんが、ある意味ではないがしろにしていると言えるかもしれません。 

 自然や場所って、もちろん例外もありますけど、人間が手を加えない限りは基本的には100年後も変わらないじゃないですか。特有の気候や地形があって、そこにいる生物や植物の種類がガラッと変わることもないし。里山なんかは、人間が手を入れ続けることで変えないという場所ですけど、それは自然の営みの中に自分たちを組み込んでいる繰り返しで、手を加えるという感じではない。 

 でも、言葉や思想を含んだ「人」という存在は、人間がずっと手を加え続けているようなもので、時代や社会の中でめまぐるしく変わっていきますよね。だからある特定の人物像に今はまったくリアリティがなくても、50年前と50年後ではすごくリアルみたいなことがあり得ます。リアリティがないとされる人物やセリフでも、それを読んだ現実の誰かが影響を受けてそのセリフを喋り思考を真似れば、よくある「人間を書けていない」なんて常套句は言えなくなってしまう。そうしてどんどん変わっていくし、いつそう変わるかもわからないなら、人なんか、いつ、どう書いてもいいはずだと開き直っていますね。そうすることで、変わらないものにきちんと目を向けられるという気持ちもありますし。 

 もう一つ願望も込めて言うと、僕の中では、その「変わらないもの」に文学も含まれています。そう思えば、自分が生きているうちの読者なんてものの数ではないですから、そこに「人を描く」ことを合わせても仕方がない。それは死後も自分の作品が「残る」とかじゃなく、自分の書いたものが「あった」だけでいいという感覚によるものですけど。

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