オスマン帝国のハレムは本当に「酒池肉林」だったのか? 研究者が語る、謎多き組織の実態

いかがわしい「ハレム」の実態とは?

王子もまた厳しい管理の対象だった

――奴隷は7年から9年で解放すべきという考えがあったのは興味深いです。アブデュルハミト二世(位1876~1909年)の時代に、ハレムを出廷することを許されずに思いつめた女官が宮廷に放火した際、スルタンはその罪は問わずに出廷を許し、むしろ彼女の出廷を認めなかった上司を罰したというエピソードからは、奴隷に対して当時ならではの倫理や配慮があったことを伺わせます。現代の日本で言うなら、寿退社を引き止めた上司がパワハラで訴えられる、みたいな感じで。

小笠原:もちろん奴隷という身分ならではのネガティブなことはたくさんあったと思いますし、ハレムの女官たちも著しく自由を制限されていたので、楽だったわけではないでしょう。17世紀以前の女官のリクルートは、現在のロシアやウクライナからの略奪が多く、17世紀以降はコーカサス地方から安定的に奴隷の購入が行われるようになりました。ハレムの女官となった女性には一定のキャリア・パターンがあって、たとえば母后が自分のお気に入りの女官を付き人にして、その女官がスルタンの目に止まれば、彼女が大きな権力を手にする可能性もある。古い時代のハレムの記録はあまりないため、実情がわからないところがありますが、少なくとも女官たちが給料を得ていたこともわかっていますし、そのお金で好きなものを買っていました。「人払い(ハルヴェト)」という行事のときには、女官たちが無人となった庭を散策したりすることも許されていましたし、時には小旅行にいくこともあったようです。

ーー女官たちが小旅行の思い出を何日も語り続けたというエピソードからは、女子校のようなイメージも湧きます。一方で悲惨なのは王子たちです。16世紀までは王位継承のために兄弟殺しをしなければならず、16世紀以降に兄弟殺しが廃止されてからも、王位を継承できなかった王子たちは鳥籠(カフェス)制度でずっとハレムの部屋に幽閉されるという。

小笠原:王子は本当にかわいそうで、王位を継承できない場合はなにひとつ良いことがないですよね。私には今、小さな息子がいるのですが、オスマン王家に生まれなくてよかったと心から思います(笑)。世襲の君主制を維持するのに合理化したのがハレムのシステムで、子どもが増えすぎてもトラブルのもとになるため、王子もまた厳しい管理の対象だったわけです。

――そうしたハレムにおいて、宦官が重要な役割を担っていたというのも納得です。でも、医療が今ほど発展していない時代に男性器を切除するなんて、想像するだけで気を失いそうです。

小笠原:宦官はイスラム以前のオリエントはもちろん、ローマや中国にも存在していたので、世界史的にはかなり普遍的な存在です。現代の視点から考えるととても残酷な制度ですが、しかし遊牧民など牧畜を生業としている文化圏では古くから馬の去勢などが行われていたので、それを人間にも適用するというのは自然な発想だったのかもしれません。当時は抗生物質もありませんから、去勢手術で4人に1人は死んでしまうため、生き残った宦官は貴重な存在でもありました。君主に仕えるには手っ取り早い出世コースでもあり、実際に大変な財力を得て文化史的に大きな功績を残した人物もいます。

ーーこの本では、ハレムの文化的側面にも触れていますね。ハレムの中で芸能文化が育まれていたと。

小笠原:もともと私の関心は王位継承だったのですが、書籍化にあたって違う角度のハレム像も提示したいと考え、芸能についての記述も入れました。お金に関する記録は後世にも残りやすいため、たとえば芸事の師匠にいくら払ったとか、芸能を身につけた奴隷をいくらで買ったとか、そういう資料をもとに、ハレムでなにが行われていたのかの研究も進んでいます。ただ、当時の芸能には楽譜などがないため、実際にどんな音楽が演奏されていたのかなどは、私の調べではよくわかりませんでした。現在のトプカプ宮殿では、軍楽隊(メフテル)が太鼓の演奏などをしていますが、それは20世紀に入ってから創作されたものです。しかし、女官たちの師匠を務めた音楽家のムスタファ・ウトリー(1640?~1711年)など、歴史に名を残している芸術家がいるように、ハレム内でさまざまな芸能文化が育まれていたのは間違いないでしょう。

『ハレム―女官と宦官たちの世界―』より、女官たちの師匠だった音楽家のムスタファ・ウトリーが描かれた100リラ札。

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