人の悩みは800年前から変わっていない? 『フツーに方丈記』大原扁理インタビュー
「不景気のなかで使う1万円はバブル時代に使う1万円より何倍もの価値がある」
ーー逆に、鴨長明に共感できないところはどこですか?
大原:あの人はひとりすぎないか? と思っています。さっき時間を自分の所有物だとは思わないほうが楽に生きられると言ったんですけど、鴨長明はあまりにも「自分」しかいない気がします(笑)。それはつまり、自分が困ったときに他人の時間を分け与えてもらえないってことですから。ゼロ百じゃなくて、もうちょっと周りの人たちとつながっておいたほうがいいんじゃないかと思いますね。無人島でひとり生きているならそれでいいと思うんですけど、まだちょっとでも社会のなかにいるなら、時間とかリソースを自分だけのものだと思っていると、不測の事態が起きた時、それじゃつらいよ~って思いました。鴨長明には妻子がいたって言われていますけれども、離縁していますからね。もうそういう責任もなかったのかもしれないですけれども、やっぱりひとりすぎるんじゃないかなーと。
ーー「人とのつながり」ということでいえば、『フツーに方丈記』では大原さんがコロナ禍のなかでも寄付を続けていたことが書かれています。誰もが経済的に苦しいなかで、切り詰めようという発想にはならなかったのでしょうか。
大原:私はこれまでお金を「友達」みたいに捉えていて、自分はお金から見て「友達になりたいと思ってもらえるような生き方をしているかどうか?」を重視してきました。今も余剰分がある程度そばにいてくれるということは、自分はまだお金に嫌われていないんだろうなと。
コロナ禍になってから、世の中こんなにお金を必要としている人たちがいっぱいいるのにお金が回っていないということは、お金の立場になって考えてみた時に、やっぱり多くの人のため、役に立ちたいと思っているはずだと。しかも、世の中にお金が出回っていないということは、お金の価値がすごく高騰しているということですよね。バブル時代に使う1万円よりも、今この不景気のなかで使う1万円のほうが何倍も価値のあることだと思うので、お金の価値が一番高い時に、率先して世の中にお金を送り出してあげたいという気持ちになったんです。
ーーそして今回のテーマでもある「死生観」について、考えを深められたところはありましたか。
大原:鴨長明は、死を人間社会の中だけで考えてなかったんじゃないかなと思っています。「世捨て人になってから死ぬのが怖くなくなった」というような言葉が『方丈記』の中にあるんです。死を人間中心に考えると、前後関係がよく見えなくてどう捉えていいのかわからなくなるんですよね。現代でいうと、人が死ぬと焼かれて埋葬されて目の前からいなくなる。日常生活に突然出現した「穴」みたいな感じで。
だけど鴨長明は山奥に隠居していて、死を身近に感じていたと思うんですよね。私もこのコロナ禍で、よくひとりで海に行くようになったんですけど、海の生物が死んでるわけですよ。一度スナメリが打ち上げられて死んでいるのも見たんですが、日が経つにつれ、カラスについばまれて骨になってだんだん崩れて砂に還っていく。死体になっても、カラスのエサになったり微生物に分解されたりして命をつないでいくのを見ると、「死」っていうのはそれ単体で存在してる謎の怖い現象じゃなくて、この世界と有機的につながっているものなんだな、というのがよくわかります。人間中心の世界から一歩出てみたら、死体すら何かの役に立っている。不要な人やモノなんてひとつもないのが本来の世界で、鴨長明はそれを知っていたから、死の恐怖を減らすことができたんじゃないかと思います。
ーー疫病(コロナ禍)だけでなく、地震や戦(紛争)と、ますます『方丈記』の時代と重なっていきますね。
大原:私はこの冬、本当に調子が悪くて。コロナ禍の1年目にはいろいろと腹が立つこともあったので、オンライン署名をしたり募金をしたりとやっていたんですけども、どうしてもできない時もあるんですよね。今でいうと、戦争に反対するということもそうでしょう。ふだんから環境への負荷が少ない生活を心がけていても「今日は無理。ごめん。使い捨てプラスチック容器のおかずを買っちゃう。許して」っていう時もあるんです。あまりに何も考えられなくて。
だけど、それもひとりでやっていると思うとつらいけど、こういうのは持ち回りで、みんなでやっていることなんだと思えば、「今、自分は休む番なんだ」と考えられて、続けられるなと思ったんですよね。できる状態の人ができない人の分まで声をあげたり行動したりする。逆に自分ができない時は、そういう順番なんだと考える。自分の生き方とかポリシーも遠慮なくお休みするっていう練習を今はやっていますね。