藤本タツキ『さよなら絵梨』がもたらす“良い混乱” モキュメンタリー漫画という革新性を考察
藤本タツキ作品の中で「映画」が意味するもの
『さよなら絵梨』のある場面で、ヒロイン(絵梨)が、優太の映画を評して、こんなことをいう。
「どこまでが 事実か創作か わからない所も 私には 良い混乱だった」
良い混乱! なんと美しい言葉だろう。そしてこのセリフは、ほとんど藤本タツキによる「自作解説」だといってもいい。そう、この「事実か創作か わからない所」――つまり、現実と虚構の境界が曖昧になることで生じる「良い混乱」こそが、藤本作品の最大の魅力であり、それを表現するには、やはりモキュメンタリーの手法が最も相応(ふさわ)しい、ということになるのだと思う。
また、『さよなら絵梨』を読めば、藤本タツキが創った世界の中で、「映画」という存在がいかなる意味を持たされているのかがよくわかるだろう。それは――先に述べた「批評、解体、再生」ということと近いが――主人公が「死」をいったん受け入れた後に、“先”へと進むための装置だ。そしてそのこと(=「映画」を媒体とした「死と再生」)は、すべての死んだ人間の行き先が「映画館」である(!)という、なんとも不思議な彼の長編デビュー作『ファイアパンチ』から一貫して描き続けられている、“不動のテーマ”だといっても過言ではあるまい。
■藤本タツキ『さよなら絵梨』(少年ジャンプ+)
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