京極夏彦が語る、妖怪と世相の関係性 「災厄が過ぎ去って、平時がもどって、やっとお化けは活躍できる」

京極夏彦が語る、怪談と世相

お化けは不要不急のかたまり


――先ほど話に出ましたけど、京極さん自身は柳田國男に思い入れはないんですか。

京極:別にないですね。ま、子どもの頃から読んでましたから、それを好きというんだろと言われれば、そりゃそうかと思いますけど(笑)。子ども心に思ってましたが、柳田って、国語学とか農政学なんかの論文は明快なんだけれど、民俗学のほうは結論を出さないし、なんかロマンなんですよ。後はお前ら何とかしろ、みたいな。『遠野物語』は論文じゃないし、資料的な価値はあるんだろうけど、まあ文学なんですよね。素材としてなら柳田がちゃんと書いていない『遠野物語拾遺』のほうがネタは多いし。人としては面白いですが、でもあの時代の人はみんな面白いな。

――シリーズをふり返ると、最初の『巷説百物語』の文庫版解説で大塚英志さんが彼の文学史観に則って『遠野物語』や柳田國男にガッツリ触れていたことも印象が強かったです。

京極:そういえばそうでした。大塚さんは民俗学者の宮田登さんの門下ですし、柳田も専門ですからね。お化け関係の人はどうしてもロマン方向に偏りがちなんですが、大塚さんは柳田の思想的・政治的な位置づけをちゃんと見ている方なので、勉強になります。『柳田國男民主主義論集』(2020)なんか、とても面白かった。

 『遠野物語』って過大評価されているきらいがあるとは思うんですよ。それは、民俗資料なのか随筆なのか文学作品なのか、そのどれでもあるしどれでもないところから来ていると思うんですよね。たとえば東雅夫さんが『遠野物語と怪談の時代』(2010)なんかに書いているとおり、『遠野物語』は怪談として読むこともできる。これって、ネタの問題ではなくてテクニックの問題ですから、文学としての評価軸なんですよね。ネタで拾うなら妖怪資料になる。自然主義文学運動の発露と見るか、郷土学研究の発露と見るか、見方はたくさんある。僕のスタンスは……どれでもいいや、に近いかな(笑)。ただお化けに偏った読み方はしないようにしてます。

――収録作の「恙虫(つつがむし)」には疫病が出てきますけど、連載中にコロナ禍になったことを受けて書いたんですか。

京極:それは――偶然ですね。このシリーズも6作になると、モチーフにしている『絵本百物語』のお化けもいいのがあんまり残ってないんですよ(笑)。今回はでかい鳥だのでかい魚だのでかい熊だの、怪獣ばっかりになっちゃったんですね。ならこの際、虫も使っちゃえ、と。でも虫ですからね。なので、虫で何か作らなきゃ、というのが先です。『西巷説』でも疫病みたいな話を書きましたが、このシリーズは一応ミステリでもあるので、結局本当の疫病にはできないんですけどね。だから現実を参考にして書くようなことはほぼなくて、まず作品に必要な“悲惨な状況”というのを考えて書くわけですけど、現実がそれよりひどくなってしまうというか。とてもやりにくいです。

 前に『虚実(うそまこと)妖怪百物語』(2016)というふざけた小説を『怪』に書いてたんですが、差別に分断、相互監視にヘイトに独裁――みたいな、「こんな世の中になったらさぞやイヤだろう」という、いかにもなディストピアをカリカチュアライズして書いたんですけど、なんかそのまんまになってしまったようなところがあって……実際やりにくい世相ですね。なんたってお化けは不要不急のかたまりですからね。

 お化けというのは、災害や戦争、疫病のさなかには、出番がないんです。しゃれにならないですからね。東日本大震災から10年、まだまともに復興もしてないわけですよ。そこに今回の疫禍です。長引く世情の不安は、人の愚かしさや社会の暗部をあぶり出すものです。怒りや憎しみ哀しみという感情をむき出しにすることで不安を解消しようとするからですね。それでは分断と対立が生まれるだけです。そうした感情を俯瞰できる心の余裕が生れてようやく、それらはお化けとして退治することができるようになるわけで。災厄が過ぎ去って、平時がもどって、やっとお化けは活躍できるんです。


――『遠巷説百物語』の表紙カバーの裏に盛岡藩で発行された藩札の七福神札が掲載されていますが、今回の収録作は経済絡みの話が多いですね。

京極:七福神札はいまの紙幣のようなものですが、絵柄が面白いので気になってたんです。ちょっと欲しい(笑)。これはもちろん創作じゃないです。盛岡藩の経済政策の中でも屈指の大失敗ですね。まあ、いつの時代にも中抜きしたりする人はいるし、効率だけ重視して大事な構造を壊しちゃったりする人はいて、まあ庶民はみんな困るんだけど一部だけは潤っちゃうような構図と云うのはずっとあるんですね。

 お化けというのは、社会と切っても切り離せないものなんです。生活が変われば変わるし、環境が変われば変わる。文化が変われば変わります。見逃されがちなのが経済ですね。経済の仕組みは、生活にも環境にも文化にも影響しますから。〈巷説〉シリーズは天保から明治までを舞台とした物語です。明治維新そのものは書いていないんですが――これは大きく社会が変動した時期といっていいでしょう。明治維新って、支配階級にとってはかなり強烈な転換ではあったんだろうし、突然ドラスティックに社会全体が変わっちゃったんだと考えがちなんですけど、生活者の視線では、たぶんそうではなくて、その前後をふくめ、かなりのソフトランディングではあったんだろうと思うんですよ。お化けって生活者が暮らしの中で生み出していくものですから、つまり変化の“予兆”みたいなものはお化けにもあったんだと思うんです。その辺を無視してしまうと、どうも物語がちぐはぐになっちゃう。今“妖怪”と呼ばれているものがそのまま江戸時代に出て来たら、やっぱりどっか変なんですよ。これは時代考証を正確にしろとか、そういう話ではなくって、その時代に生きた人の心性の問題ですからね。

 例えば、座敷童子って“農村部の経済構造の変容”をモロにうけて変質しちゃった例だと思うんですね。今は「座敷童子見ちゃったラッキー」とか「うちに座敷童子キター! 幸せになる!」みたいな感じなんですけどね、あれは本来はそういうものではなかったんですね。あるところでは呪いだし、蔑称でもあるし、被差別的な視線が生んだものではあるんですよ。「村」というのは、もともと運命共同体でした。でも貨幣経済が浸透するにつれ、貧富の差が生れます。富は「お金」に集約されることで、「行き来」するようになったんです。個人に一極集中したり個人から個人に移動したりする。そうした富の偏りを是正するために考え出されたのが、憑き物だったり座敷童子だったりするんですね。六部殺しの伝説なんかも同根のものでしょう。

 いや、今の座敷童子が間違ってるというんじゃないんですよ。変わっちゃったんです。その昔、村落共同体ではお金持ってるってある意味“悪いこと”だったんですよ。だから富は「個人の努力で得た」ものなんかじゃなくて、座敷童子みたいな「悪いものが憑いてるから得た」ものなんだという考え方ですよね。だから出て行くと没落する。富というラッキーアイテムと、座敷童子というアンラッキーアイテムを等価とすることでバランスをとってたわけですね。でも、『遠野物語』なんかを読むと、そうではない座敷童子が混在している。家の中で出会ったりしますね。見るのは裕福な家の子だったりします。これは民間伝承型をふまえて生まれた、都市伝説型ですね。その後、民俗社会の共同体はゆるやかに解体されて行き、個人主義のようなものが浸透してくると、「お金持ち」は悪いことじゃなくなっていきます。憧れるものだし、妬む人のほうが悪く思われるようになった。だから座敷童子も変容したんです。価値観が変わればお化けも変わるんですよ。

 遠野に座敷童子が出たという廃校があるんですね。これ、よく考えると変で、富をもたらすのなら「廃」校に出るのは変でしょ? 一種の心霊譚として語られたのかもしれませんが、今、その場所には座敷童子が祀られています。このあたりの受容のされかたが実に面白いんです。どっかの時点で経済構造に対応したモノという意味が消失して祈願の対象になっちゃう。『遠野物語』は明治という転換点に書かれたものです。ですから『遠巷説』は、転換の予兆という感じで書きました。

――昨年、京極さんの妖怪論『妖怪の宴 妖怪の匣』の文庫版が出て、新しいあとがきで妖怪を推進する必要がなくなったとありました。コロナ禍で疫病を予言する妖怪アマビエが、『鬼滅の刃』ブームで鬼が注目されましたが、昨今の妖怪をめぐる状況をどうみていますか。

京極:“妖怪”って、50年前は日陰者でしたからね。水木さんの登場で一般化しましたが、その後オカルトなどの近似ジャンルに埋もれて、見えにくくなってたようなことろもあるんです。水木さんを筆頭にして、その日陰者を理解してもらい、守り立てて行こうという気運になったのが、まあ30年くらい前。全日本妖怪推進委員会なんてアホな名前で「お化けはいいぞ」なんて言いはじめたのが20年前です。お化け好きが不遇だった時代(笑)、お化け好きはお化けとまじめに向き合うのが大変だったんです。原典にあたるとか一次資料を捜すとかいっても手に入らないし、同好の士に出会うのも大変だった。今、僕らが古本屋をめぐって10年かかって行きついた資料でも、まあ30秒くらいで閲覧できる。解釈も表現も何でもありで、コンテンツも氾濫してます。それらはもちろん、水木さんをはじめとする先人が築き上げたものの上に乗っかってるものなんだけど、それは別にいいことだと思う。間違いを指摘したり、自分の功績を主張したり、目くじらを立てる意味は、あんまりないように思うんです。それにもまして、別に僕みたいな年寄りが推進しなくたってもういいだけ勝手に進んでる(笑)。だから僕らの出る幕はないですよね。僕らは今まで通りお化けを楽しめばいいと考えています。

――先ほど「虚実(うそまこと)」というキーワードが出ましたけど、フェイクニュース、オルタナファクトなんてことがいわれる近年の状況を京極さんはどうとらえていますか。

京極:まあ、小説は全部嘘です。小説以外も大差ないです。言葉は真実を伝えることができません。映像も同じですね。そこから真実をくみ出すのは、受け取る側なんですね。でも、じゃあそもそも受け取る自分は信じられるのかといえば、まあこれが一番信用できない。身体的に知り得ることって真実だと思いがちですが、僕たちはまず自分の脳に騙されてますからね。幻覚、幻聴、幻視だって、その人にすれば真実ですが、事実じゃない。人は自分に都合の良いものを見て、聞いて、信じるんです。ネットの情報だから信用できないとか、書籍に書いてあれば安心だとか、体験したことしか信じないとか、そういうことじゃないんです。「それを信じたいと思っちゃう自分は大丈夫なのか」と、常に思っていないと、簡単に騙されます。陰謀論にもはまるし詐欺にもあうでしょう。それはずっとそうなんだけど、ただ今の世の中「これなら無条件に大丈夫」という指針が示されなくなった、示せなくなったという気はしますね。だから個々人がよりいっそう考えなくちゃいけなく状況ではあるんですよね。

――お時間なので最後の質問です。現在、『怪と幽』に「了(おわりの)巷説百物語」を連載中ですが、題名通り本当にシリーズは終わるんでしょうか。

京極:終わりです。なぜなら『絵本百物語』のお化けも在庫一掃セールでなくなっちゃいますから、書きたくてももうないんです。だから、いくら編集長がいってきても、続きはない。本当に本当に本当の終わりです(笑)。完結をお楽しみに。

■書籍情報
『遠巷説百物語』
京極夏彦 著
定価: 2,530円(本体2,300円+税)
発売日:2021年7月2日
判型:四六
ページ数:600

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