『寄生獣』はなぜ現代によみがえったのか? 時代を越えた“問い”を考察

『寄生獣』現代に復活したワケ

「誰かがふと思った。生物(みんな)の未来を守らねば…」

 これは、岩明均の漫画『寄生獣』(講談社) の冒頭に登場する有名なフレーズだ。

 ここでいう「みんな」とは誰のことだろうか。人によって「みんな」の範囲は家族や友人だけかもしれない。現代人の多くは同じ国に住んでいれば「みんな」と感じるかもしれないし、もっと大きく人類すべてを「みんな」と思う人もいるだろう。

 そして、人類以外の哺乳類も「みんな」の枠内だと考える人もいる。「みんな」の範囲は、時代によっても変化してきただろう。人間はいつだって「みんな」を守るために戦ってきたとも言える。ただ、「みんな」の範囲が違っているだけだ。

 現代は、気候変動による世界的な大災害の多発などもあって、「みんな」の範囲がかつてなく拡大している時代と言える。地球全体の「みんな」のことを考えないと生き残れないという感覚が広がっている。だが、それほど巨大な視点で「みんな」を捉えた時、そもそも地球環境を危機に追い込んでいる人間こそが「みんな」にとって害なのではという考えを否定しきれない。『寄生獣』は、人類を捕食対象とみなす寄生生物(パラサイト)の存在を通じて、そんな困難な問いを読者に突きつける作品だった。

 その『寄生獣』のスピンオフ漫画『寄生獣リバーシ(以下リバーシ)』(岩明均/太田モアレ/講談社)が今連載中なのは、時代の必然と言えるかもしれない。

 『リバーシ』では、『寄生獣』本編で人でありながら寄生生物(パラサイト)を支援する政治家、広川の息子を主人公にし、本編の裏側で進行していたもうひとつの戦いを描いている。

今一度問われる「生物(みんな)の未来」とは

岩明均『寄生獣(1)』(講談社)

 『寄生獣』本編の主人公、進一がパラサイトとの戦いに巻き込まれ、各地で不審な連続殺人が起きていたころ、『リバーシ』の主人公、広川タツキが友人を殺された仇討ちのために、刑事らの協力を得て、左手にパラサイトを宿した海老沢と対峙するというのが、『リバーシ』の主なプロットだ。

 海老沢は社会に鬱屈していて、殺人を楽しんでいる。海老沢にとってパラサイトは自分の願いを叶えてくれる存在で、「スレドニ・ヴァシュタール様」と名づけ崇拝している。海老沢は、パラサイトへのお供え物として違法なドラッグを左手に注射しており、パラサイトも快楽に身を浸して海老沢のいうことに従っている。

 「スレドニ・ヴァシュタール」の元ネタは、イギリスの小説家サキの短編小説「スレドニ・ヴァシュター」と思われる。この小説は10歳の孤独な少年が、後見人となった夫人を疎ましく思い、庭の片隅の小屋にいたイタチに「スレドニ・ヴァシュター」と名づけ、神様として崇拝する。そして、夫人の死を願ったところ、夫人がイタチに殺されてしまうという物語だ。世間に鬱屈している海老沢にとって、パラサイトはなんでも願いを叶えてくれる存在なのだろう。

 主人公のタツキはそんな海老沢に友人を殺されたことで仇を討つために行動する。タツキは高校生にしては時折、異様なほどに広い視点の言動をすることがある。例えば、タバコを吸っている同級生に対して、地球が汚れるから自分は吸わないと言い放つ。この異様な視点の大きさが『寄生獣』らしいのだが、彼の行動動機は復讐という極めて人間らしいものでもある。友人を殺したパラサイトを許せないタツキは、それらを支援する父親とも対立する。

 タツキの父は、「人間は自然との共存を訴えているが、人間の優位性を保ったまま搾取しているに過ぎない」と主張する。政治家には広い視点の大局観が必要だとよく言われるが、広川の視点は一介の市長としてはあまりに広すぎるとも言えるかもしれない。だが、ある意味、地球全体の「みんな」の未来を考えているとも言える。

 2人の考えは「みんな」の範囲の捉え方の違いとも言える。タツキにとっては友人や親しいものこそ「みんな」である。対して広川は、人間以外の生物全体が「みんな」だ。どちらが客観的に正しいのかは決めることができない。広川がタツキに「それを決められるのは自分だけだ」と言うのだが、広川にもそれなりの信念があって行動していることを伺わせる。

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