福嶋亮大が語る、平成文学の負債と批評家の責務 「灰から蘇ってくるものも当然ある」

福嶋亮大が語る、平成文学が残した負債

令和の文学は政治の補欠にすぎない

――『らせん状の想像力』の終章には「感染と梗塞」という節があり、「平成という時代を象徴するのも、感染性の疫病というよりは、心の梗塞(閉塞)に関わる病であり、それは平成後期の文学にも明らかに反映されていた」とあります。この部分は元号が令和になった後、昨年はじめに書かれたものですよね。同時代のコロナ禍を意識した文章だと感じましたが。

福嶋:そうですね。昭和では結核が、社会的にも文学的にも大きな問題でした。この問題としての結核が退潮してから、平成は心の問題に傾斜して90年代後半には多重人格ものが出てくる。2000年代以降は子どもの発達障害、大人の鬱、老人の認知症が一種の国民病みたいになる。その一方、ウイルスのモデルはコンピュータ・ウイルスとかネットのヴァイラル・マーケティングに吸収されていく。そこに令和になって、久々に本物のウイルスがやってきたという感じでしょう。

 ただ、コロナウイルス自体は、表象的には貧困です。ペストは身体が黒ずんで死んでいくということで、劇的な想像力と結びついた。アントナン・アルトーとか、プーシキンとかですね。結核も堀辰雄を筆頭に、ロマンティックな想像力を呼び寄せてきた。けれどもコロナウイルスにまつわるイメージや表象は、平凡の極みでしょう。コロナを表現するのは、日々の感染者数のグラフや顕微鏡で撮られたボール状の写真であって、劇的なものやロマンティックなものとは無縁です。

 最近『総合診療』という雑誌に、コロナは鏡のようなもの、あるいはスタニスワフ・レムの描いた「惑星ソラリス」のようなものだと書きました。つまり、このウイルスは、各人が自分のそれまでの欲望や思想を投影する鏡なんですね。結果的に共産主義者はグローバル資本主義をいっそう強く批判するようになったし、エコロジストは自然環境との調和が大事だと言い募るようになったし、ITの礼賛者はこれからはZOOMを使ってテレワークだというようになる。誰一人としてコロナになったからといって思想転向した人はいない。あらゆる思想がデフォルメして語られるようになったのが、この疫病の効果です。

――『らせん状想像力』にとりあげられている作家でいうと、村上龍の『ヒュウガ・ウイルス』が感染症を扱っていて、ウイルスが人間の覚醒をうながすような描きかたもされていましたけど、ああいう感じでは……。

福嶋:全然ないです。村上龍が書いたのは、エイズとエボラ出血熱の合成みたいなウイルスですごく派手なんですけど、派手ということは自身の生き残りという意味では不利でアホということなので、その点、コロナウイルスは非常に賢いウイルスでしょう。

--平成文学論を書き終えてしばらくたった今、令和の文学をどうとらえていますか。

福嶋:本の第三章で詳しく書きましたが「政治と文学」という問題設定が久しぶりに復活しているのは、重要だと思いますよ。昔の政治はマルクス主義であったけれども、今はポリティカル・コレクトネス(PC)ですね。政治と文学だったら、今はもう政治のほうが圧倒的に優位に立っていて、文学はそれに寄生(パラサイト)していく形で書かれている。昔のプロレタリア文学みたいなものに近い。この状況はしばらく変わらないと思います。こうなると、まとまった文学史を書けるのは、平成で実質的に終わりではないか。令和の文学は政治の補欠にすぎないし、もはや文学としての自律性をもっていないですから。

 ただ、僕自身はこういう環境とは別の世界を見たいので、今の『群像』の連載(『ハロー、ユーラシア』)では香港と中国におけるイデオロギー的言説をとらえる方向にシフトしています。今の日本は官民ともに相当おかしいから。

――文学においてもPCが強く意識されるようになってきました。

福嶋:まぁ、結局PCの言葉は強すぎるんですね。力を持っている言葉を十分な内省なしに使うのは、一般論として危険なことです。これまでは強い国家権力が向こう側にいて、文学は弱い言葉の代表、あるいは「弱いがゆえに強い言葉」ということになっていた。ところが、今は市民社会の強い言葉で文学が武装できるようになっているので、これまでとは違う局面を迎えていると思います。ともかく、僕は生理的に権力に近寄りたくないんです。

――PCは今、権力になっているということですか。

福嶋:もちろん、そこには多面的なとらえかたがあって、今までわりを食ってた人たちが反旗をひるがえすこと自体は当然だからやればいいと思いますよ。ただ、学生にもよくいうのは、もう少し自己中心的に生きたほうがいいんじゃないかということです。ジジェクが書いているけど、自己中心的に生きている人は自分のことで忙しいから、他人をねたんだり、他人に害を及ぼす暇もない(笑)。しかも、そういう自己中心的な利害で動いている人が、公共的な問題にスライドすることもさほど難しくない。それでいうと今は、他人の関心とか他人の問題を自分の問題と勘違いしている人が多い。PCのもたらした変化はそれです。表面的な印象とは逆に、自己中心的な人は減っているんじゃないですか。

――これまでの福嶋さんの著作をみると『復興文化論 日本的創造の系譜』、『厄介な遺産 日本近代文学と演劇的想像力』、『百年の批評 近代をいかに相続するか』など、歴史や時代を扱ったものが多い。キーワードとなるのが、遺産、相続です。どのように受け継いでいくかが、問題意識の中心にあるんですか。

福嶋:遺産といっても、いい遺産と悪い遺産があって、受け継ぎたくない負債も当然ありますね。僕はどちらかというと負債問題のほうに興味があるんです。というのも、人間を縛りつけているものはなにかを言語化し、検証するのが思想の基本だと思っているので。しかも、負債ゆえのトラブルをたくさん抱えている作家のほうが、えてして良かったりするわけです。

――平成から令和に受け継がれた一番のものは、なんだと思いますか。

福嶋:昭和だと珠玉の名作みたいなものはたくさんありますが、平成はそういう意味での美しい作品はあまりないですね。文学史的に今後どれくらいの作品が残っていくのか、不透明な部分がけっこうある。代表的な作品もかなり絶版になっていますね。文学に関心のない人からすると、平成の文学はすごく読みにくく、間口が狭くなったことは確かでしょうし、まさにそれ自体が負債です。しかし、そうやって一度間口を狭くしなければ語れない問題もあったというのが、この本における文学の救いかたです。いずれにせよ、ウサギとアヒルです。

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