松岡正剛が語る、日本文化に必要な心意気と長い文章の強み 「過激な表現があってこそ、中道も見えてくる」

松岡正剛が語る、日本文化に必要な心意気と長い文章の強み 「過激な表現があってこそ、中道も見えてくる」

 編集工学研究所所長/イシス編集学校校長として、編集技術のあらゆる可能性を追求してきた松岡正剛が、自身のライフワークでもある書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」にて、書評を通じてコロナ禍に対する考えを述べている。2020年3月18日には『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)を、6月12日には『千夜千冊エディション 宇宙と素粒子』(角川ソフィア文庫)を上梓するなど、著述家としてもますます精力的に活動する松岡正剛に、今の日本文化に必要な心意気、「松岡正剛の千夜千冊」が常に重厚な読み物となっている理由、同サイトでも言及したコロナ禍についての意見、そしてこれからの編集者の心構えについてまで、たっぷりと話を訊いた。(編集部)

トゥーマッチな表現を追求する力がなくなってきている

――『日本文化の核心』では、例えば第11講「かぶいて候」で「いまの日本社会にはバサラ(中世の派手な格好をした武士たち)の心意気が足りない」と提言するなど、日本文化を今後、どのように発展させていくべきかのヒントが散りばめられています。改めて本書を著した理由を教えてください。

松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)

松岡:もともと僕は『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』(2000年/朝日新聞社)や『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』(2006年/NHKブックス)、あるいは『日本数寄』(2007年/ちくま学芸文庫)などの本で、日本について色々と書いてきたのですが、日本の神話、天皇制、大日本帝国や満州事変など、様々な歴史を含めて日本文化を語る際の語り口があまり確立されていないと感じてきました。2000年代に入ると「クールジャパン」なんて言い方も出てきたけれど、なぜ天皇と将軍が並存していたのか、なぜ戦時の日本は満州を欲しがったのか、そのような歴史的な背景が抜け落ちた状況での和風ブームは、軽薄に思えるところがあった。

 一方、マサチューセッツ工科大学の文化人類学者イアン・コンドリーなどは、最初に日本語のラップが出てきたときは「最悪だ」と言っていたのが、だんだんと「結構おもしろいね」なんて言い始めて、外から見た日本文化の印象が変わりつつあるのも感じていました。それ以前から、日本が海外のポップミュージックを翻訳する際には独自の工夫がなされていて、例えば桑田佳祐が「海岸」を「かいぎゃん」と発音したりとか、日本語を英語のように歌うことで洋楽と融和させようとしてきました。なぜこのような工夫がされたのかというと、日本がもともと無文字社会だったことが関係していると思います。つまり、縄文・弥生時代には文字がなかったのが、中国から漢字が入ってきた際に、もともとの日本語の発音と融合させて日本語読みにしていった万葉仮名の発想に近い。そういうルーツが今なお生きているんですね。

ーー現在の日本のポップミュージックを、歴史的な背景と接続して考えることもできるわけですね。

松岡:「シャ乱Q」なんて、カタカナの「シャ」と漢字の「乱」とアルファベットの「Q」を一緒にしていて、まさに万葉仮名のような言葉の使い方です。紀貫之の『土佐日記』などは、それまで貴族は漢字を使う習わしだったのが、あえて女性のふりをして仮名で書かれています。僕らが若い頃は、イギー・ポップなんかが上半身裸でメイクをしてパフォーマンスをしていたけれど、そういう文脈とは別に、日本には独自の“ジャパンフィルター”というべき文化の解釈の仕方が、歴史的に見てもあるのではないか。今回の『日本文化の核心』では、日本の歴史や宗教観に触れながらも、例として椎名林檎など現代のポップアーティストの名前を挙げて、そのことをわかりやすく解説しようと試みています。

――本書を読んで、日本は海外の文化をそのまま取り入れるのではなく、“ジャパンフィルター”を通すことによって独自性を獲得しているのだと感じました。一方で、日本で連綿と続いてきた「バサラ」や「かぶき者」のような過激な表現は昨今、コンプライアンスを重視するあまりに生まれにくくなっていると指摘しています。

松岡:差別用語を使わない、人を叱らない、自制/自粛をしようといった風潮が高まり、過剰さが避けられるにつれて、表現が抑圧されている部分はあると思います。歌舞伎も枯山水も茶の湯も、もともとは非常に過激なことをしてきました。能や茶の湯や枯山水などは引き算が過激で、舞台の上にほとんど何もないような表現を追求していますし、逆に歌舞伎では派手な格好で大立ち回りをしたりする。和事と荒事、あるいは和魂と荒魂といった観念は日本文化にとって大事な要素ですが、昨今はあらゆるものが抑えられて、トゥーマッチな表現を追求する力がなくなってきている。悪党やかぶき者、あるいは風流(ふりゅう)と呼ばれた美意識は本来、どのようなものだったのか。それを改めて捉え直すことが、日本文化を発展させるために必要だと思います。

――僧の一休宗純が、破天荒な振る舞いの中に禅の心を覗かせようとしたことを引きながら、表現には極端さがなければ中道も見えなくなると説いているのが興味深かったです。

松岡:一休禅師は格別にユニークです。男色も女色もするし、人の奥さんと不倫はするし。だけど大徳寺の管長として君臨もするし、文化人のマネージメントもする。茶の村田珠光、能の金春禅竹、花の池坊専好などは、独特の“一休文化圏”の中で活躍しました。彼の生き方や思想は仏教にもとづいたパンクであり、詩集『狂雲集』などは現代であればラップで表現されてもいいくらい過激なものです。そういう表現があってこそ、中道も見えてくる。そのような日本文化の本質は、ポップカルチャーに携わる人々にもぜひ知ってほしいです。

――しかし、コロナ禍以降、過剰な表現への抑圧はさらに強くなっているようにも感じます。松岡さんはどう思いますか。

松岡:僕もそう思います。コロナ禍で新自由主義やグローバル資本主義の行き詰まりが、いよいよ浮き彫りになった。政権の不甲斐なさといった問題のしわ寄せが、若い人たち一人ひとりにいっている。でも、若い人たちの多くは、その中で何を振りほどいていくべきかが見えていないようにも感じます。現在の息苦しさの要因は、コロナ以前からずっとあったもので、例えば昨今の日韓関係も米軍基地の問題も、日本が歩んできた歴史の結果です。その中で我々の文化がどのように発展してきたのか、一度立ち止まってじっくりと掘り下げてみることが大切だと思います。歌舞伎や俗曲も時代ごとにいろいろな規制をかけられながらも、新しい表現を生み出してきました。息苦しさを感じるのは、逆に次の表現へと向かうチャンスでもあります。

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