人気漫画家からもリスペクトの嵐 田島列島『水は海に向かって流れる』が描く、繊細な人間関係
そんな作家らしい名言が飛び出したかと思えば、1話ずつのネームにしたのは「お金が全然ないから、1話分でも貰えるならもらいたい」とシビアな話題も。絵柄に通じるフワッとした部分と、現実への生きにくさにもがく部分とが、共存しているようなインタビューを読んで、時代を超えて愛される文豪たちのことを思い出した。作品に没頭するあまり人間関係を断ってしまったり、逆に人を愛さずにはいられなかったり、お金を無心するような生活になったり……そんな人間臭さと引き換えに名作が生まれてきたことを。
田島列島の作品にも、そんな人間臭さが香るのだ。臭いものにフタをせず、シンプルにその臭さと向き合っていく。今はいろんなことがシステム化されて、波風立たないのが“正しい“と思い込んでしまうときがあるけれど、そうはいかないのが人生だ。
大人になっても、結婚しても、親になっても、聖人君主のようになるわけではない。間違った方向に進んでしまったり、恋に落ちたり、傷つけたり傷ついたり、迷惑をかけたりかけられたり……その大きな波は、自分で起こさずともやってくることがある。
人と生きるというのは、きっとそういうことの連続で、否が応でも面倒に巻き込まれるということなのだ。『子供はわかってあげない』も『水は海に向かって流れる』も「家族」というテーマが漂ってくるのは、家族=最小単位の社会であり、自分のルーツという逃れられないものだから。
波風を立てず、温和に過ごそうとするあまり、自分の感情を見て見ぬふりをしてしまう人がいる。だが、許せないときには怒っていいし、苦しいときには誰かに背負ってもらっていい。荷を分かつことで気づくことがあるし、止まってしまった時計を動かすこともある。自分が何を思っていて、どうしたいのか。意外にも、私たちは自分のことを良くわかってない。だから、人を合わせ鏡にして知ろうとするのかもしれない。
「わがまますら言えない コドモのままじゃ 目の前のこの人が背負うモノを 半分も持つことも出来ない」
「知っててほしかった 怒りたかったこと 誰かが知っていてくれるだけで きっと 生きていけるんだろう」
『水は海に向かって流れる』で、直達も榊を通して自分を理解していくのだが、その作業はそのまま読者と作品という関係性にも言えそうだ。何に心が震え、何に胸を熱くし、何に涙を流すのか。私たちは田島列島の描く作品を通して、自分について「思いついたというより“わかった“」という感覚になるのではないか。
自分の感情を押し留め、主張をせずに受け入れようとしがちな現代人が背負っているモノを、そっと紐解いてくれる。だからこそ、田島列島の作品は多くの人を魅了してやまないのだろう。