吉田修一はなぜ実際に起こった事件を小説にするのか? 『逃亡小説集』が描く“生のほとばしり”

吉田修一、なぜ実際に起こった事件を小説に?

 思えば、吉田修一の代表作のひとつである『悪人』(朝日新聞社)の後半部は明らかに“逃亡小説”であった。そして、『怒り』は、自分たちの住む町にやってきた男が“逃亡中の容疑者”ではないかと疑う人々の心理を描いた小説だった。そう、吉田修一が描く“犯罪小説”は、実はその多くが“逃亡”とセットになっているのだ。奇しくも、本作の最後に収録された「逃げろミスター・ポストマン」の中に、こんな一節がある。

幸大は春也に返す言葉を思いつけないでいた。春也の言っていることが子供じみていることも、甘ったれていることも分かっている。なのに、「俺、もしかしたらずっと逃げたかったのかも」と言った春也の言葉が耳にこびりついて離れなかった。(「逃げろミスター・ポストマン」)

 彼/彼女たちにとって“事件”とは、あくまでもひとつのきっかけに過ぎなかった。心の奥底でいつしか抱くようになっていた、すべてを捨てて、“ここから逃げ出したい”という思い。無論、それが叶わぬ夢であることは、本人たちも重々わかっている。そして、その“逃亡”の行き着く先に“楽園”などありはしないことも。けれども、心のどこかでそれを願わずにはいられない。彼/彼女たちを、そのように仕向けるものは何なのか。それは、人間の性なのか。それとも、彼/彼女たちを追い詰める、この社会の理不尽さなのか。

 長編小説とは異なり、本作に収録された短編小説の終わり方は、いずれも深い余韻を残しつつも、それぞれ読者の手に委ねられたものとなっている。その逃走の果てに、どんな結末が待っているのか。それは誰にもわからない。否、むしろそれは問題ではないのだろう。“ここから逃げ出したい”という思いを、やむにやまれぬ事情があったにせよ、実行に移してしまったものが、その瞬間に初めて感じることのできた“生のほとばしり”のようなもの。あるいは、それを目の当たりにしまったものの内に広がる、心のざわつき。吉田修一という作家は、“犯罪者”を入り口としながら、そんな“生のほとばしり”の瞬間を描き出そうとしているのだ。吉田修一の『逃亡小説集』──これは、期せずして彼の文字通りの“作家性”が浮き彫りになった、そんな短編集なのかもしれない。

■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。

■書籍情報
『逃亡小説集』
吉田修一 著
価格:本体1,600円+税
発売/発行:KADOKAWA

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