李琴峰が語る、セクシャリティとアイデンティティの揺らぎ「10年後には違う自認が生まれるかも」

李 琴峰、『五つ数えれば三日月が』を語る

「自認というのは誰もが考え続けないといけない」

ーー台湾に旅行に行くと、現地の方に歓迎されていると感じることがあります。そうした感覚について、李さんはどんな風に捉えていますか。

李:台湾は外国人を分け隔てなく心から受け入れているかというと、完全にはそうとは言えません。中でも、日本人、アメリカ人、白人、西洋人……といった先進国の人と、そうではない東南アジアや黒人といった人たちに対する態度は違うと思います。実際の問題として、東南アジアからの移民労働者たちが台湾に来てひどい仕打ちを受けているというニュースをよく見ます。そういう現実がある一方で、日本人が台湾に行くと丁寧にもてなされていると感じている。まず、日本人でも台湾人でも、人種や国籍によって相手の態度が変わっている可能性があることは、自覚する必要があると思います。

 私が日本に移り住んで来て、外国人として息苦しさを感じたことはあまりないですが、それは私が日本語が上手く話せて、外見もほとんど日本人と見分けがつかないからだと思います。日常生活を生きている限り、自分が外国人であるということを意識させられることはあまりないですね。でも、差別を受けたり、息苦しさを感じたりすることが完全にないのかというと、そうでもなくて。例えば、家を借りる時とか大きな手続きをする際だと、どうしても自分の出自を提示しないといけない。そういった場面においては、外国人は入居ができなかったり、高い保証料を徴収されたりといったことはあります。一人の生活者として、故郷だから快適で、異郷だから息苦しいというような単純なものではなく、どちらで生きても絶対に人の温もりみたいなものを感じる瞬間はあるし、逆に酷い仕打ちや差別的な扱いを受けたり、息苦しさを感じたりすることはある。そこは個々の生活者が生き抜いていかないといけないところだし、社会側も変えていかないといけないところだと思います。

ーー性的マイノリティの問題については、どのように考えていますか。

李:性的マイノリティか否かという問題は、個人の自認の問題であると捉えています。私は異性愛者でストレートだという人には、性的マイノリティをめぐる問題は無関係な話に思われるかもしれません。しかし、自分こそが普通だという人たちにはちょっと考えて欲しい。自分が例えば異性愛者やシスジェンダーだったり、あるいは自分がごく普通の一般人だと思うのはなぜなのか。その理由を考えていくと、性というものをまた違った視点で見ることができるのではないでしょうか。

ーー自己認識という考え方を知ることが、多様な性に思いを馳せる上で大切だと。

李:そうですね。それに、自認というものは結構揺らぐものだとも考えていて。人生のある段階、あるいは時代によって「自分はこうである」という捉え方は変わってくるものなので。10年前はこう思ってたけど、10年後はまた違う自認が生まれてくるかもしれない。そういう風に捉えると、自認というのは誰もが考え続けないといけないものだと思います。自分はマジョリティで異性愛者だと自認して安心していたとしても、そう自分を位置づけることは、もしかしたら思い込みでしかないのかもしれない。そういう考え方を、もっとみんなが意識していくと良いのになと思います。

ーー本書に収録されたもう一編の作品「セイナイト」では、映画『アデル、ブルーは熱い色』といった性的マイノリティの恋愛を題材にした作品が出てきました。映画や文学作品、あるいは音楽において、そうした表現が昨今増えてきていますが、李さんはどのようにご覧になっていますか?

李:性的マイノリティを題材とした優れた作品が生まれていることには、もちろん諸手を挙げて賛成、歓迎しています。実際、そういった人々は当たり前のように世の中で生きているので。そういう人たちを表現する、あるいはそういう人たちが表現する作品は出てきて当たり前で、むしろ今までは少なかったとさえ個人的には感じます。ただし、自分がそうじゃないと思う人がそういう人たちを描くにあたっては、非常に真摯な姿勢が求められると思います。村上春樹の小説にもレズビアンやゲイ、トランスジェンダーが出てきますけど、そういう人たちの人生を本当に描くことができているのかというと、私はそうは思いませんでした。セクシャルマイノリティを記号として捉えるだけでは、その実相を描くのは難しく、かえって人々に誤解を与えかねないと思います。レズビアンやゲイ、トランスジェンダーといった人たちを特殊な存在として作品の中に取り込むことで、小説の豊富さ、あるいは陰影を作る役割を果たしていたのかもしれないけれど、これからはもっと真摯な姿勢が求められてくるはずです。現実でそういったセクシュアリティを自認している人たちが、どのような人生を送っているのか、きちんと向き合う必要があります。もちろん、良い作品はたくさんあります。綿矢りささんの『生のみ生のままで』は好きでした。ただ、女性同士の恋愛にはもっとドロドロした部分もあるから、そういった側面を描く作品も読んでみたいです。

ーー台湾の文学界ではレズビアン小説などは、日本よりも一般的になっているのでしょうか?

李:必ずしもそうとは言えないです。台湾というとLGBT、セクシャルマイノリティの人権が進んでいるイメージはあり、実際今はその通りだと思いますが、歴史を紐解くと1987年まではいわゆる戒厳令が敷かれた独裁政治の時代で、マイノリティ、少数者、社会的弱者にとっては生きづらい時代でした。白先勇の『孽子(げっし)』は、1970年代の台北新公園という発展場を中心にゲイコミュニティを書いた長編小説で、その中でも示されているようにゲイというのは森の中で彷徨ってるだけで、警察に追いかけられたりする時代でした。民主化した90年代に入り、セクシャルマイノリティ運動、そして女性解放運動が興り、それを支える形で同志文学という名のセクシャルマイノリティ文学が爆発的に増え、2000年代に入ってからは当たり前のようになっていきました。今の台湾の文学界では、むしろそれを売りにしないような感じです。日本にも昔から同性愛者、セクシャルマイノリティを扱う小説、あるいは表現が存在していたと思います。ただ、それを一つの独立したジャンルや呼び方、同性愛小説、セクシャルマイノリティ文学だといったアピールの仕方はしてこなかったのかなと。だからこそ、可視化されてこなかったのかもしれないけれど、それでもいいような気もします。セクシャルマイノリティは、決して珍しいものではないのだから。

ーーそういった作品において、日本と台湾で描かれている恋愛観に違いはありますか?

李:あくまでも私の個人的な感覚ですけど、伝統的に台湾のレズビアン小説って暗くて、だいたい組織からの放逐だとか家庭からの追放、あるいは自殺だとか、そういったモチーフ、ストーリー、プロットが多い。台湾では誰もが知っているレズビアン作家の邱妙津も、1995年に26歳で自殺した作家です。彼女は『ある鰐の手記』や『蒙馬特遺書(モンマルトルの遺書)』といった有名な小説があるんですけど、どちらも主人公が(象徴的な形であれ)自殺してしまうという物語です。私が読んでる範囲では、日本だとそういった表現は少ないですね。最近、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を再読したんですけど、既成概念に捉われずに自分たちならではのセックスの仕方を追求する女性同士の姿が描かれた小説になっていて、自死や追放、現実社会の障壁みたいなものは強調されていません。台湾と日本の作品では、そういった傾向の違いはあると感じています。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「著者」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる