忌野清志郎の音楽はなぜ今も時代に刺さるのか デビュー50周年を機に、ロックで“メッセージ”を伝え続けた軌跡を辿る
2020年、忌野清志郎がデビュー50周年を迎えた。それを記念して清志郎のYouTubeチャンネルが開設され、忌野清志郎、THE TIMERS、忌野清志郎 & 2・3’S、忌野清志郎 Little Screaming Revue、ラフィータフィー、LOVE JETSの各名義による17曲のミュージックビデオが初めてWEB公開された。
筆者は常々「清志郎はいつの時代でも全盛期」と考えている。CDやライブ映像などで見た瞬間、聴いた瞬間、その時々こそが「自分にとって一番の清志郎になる」と思っている。どの時代でも清志郎は通用するし、彼がこの世にいない11年の間も、そのピークは続いているような気がしている。
一方で、若者たちの間で絶対的に知られる存在ではなくなったのも事実だ。2016年、筆者はエフエム滋賀(あの“FM東京”の系列局!)の番組でパーソナリティを務めていたのだが、そこで忌野清志郎特集をおこなった際、番組スタッフが当時の10代を対象に「忌野清志郎を知っているか」と街角インタビューを実施。「はい」と回答した人は、ひとりもいなかった(亡くなって8年も経っていたので当然かもしれない)。「清志郎と今の若者世代の関係性」について初めて考えるきっかけになった。
かつて清志郎は〈僕の事すべて わかっていてくれる〉(「君が僕を知っている」)と歌った。でも、それはもう遠い昔の話になってしまったのだろうか。ミュージックビデオの初公開企画では、「今この時代に見るべき映像17曲」というキャッチコピーがつけられている。今回は、彼のヒストリーとミュージックビデオの内容をいくつか取り上げ、「今見ても忌野清志郎はおもしろい」ということについて触れていきたい。
清志郎は社会への疑問を曲にして、抗議の声を歌に変えた
まず忌野清志郎のプロフィールを簡単に振り返る。1968年にバンド、RCサクセションを結成し、1970年にシングル「宝くじは買わない」でデビュー。生ギターとウッドベースという編成だったことと、当時の音楽シーンのブームから「フォークバンド」にカテゴライズされた(今でも「RCはフォークからスタートした」と紹介される)。しかし清志郎は一貫して、「俺たちはフォークなんてやっていない。最初からR&Bバンドだった」と否定してきた。
1991年のRCサクセションの無期限活動休止後はソロだけではなく、さまざまな名義のバンドも組んで精力的に活動。アルバムのタイトルにもなったが、日本のロック界における「KING」「GOD」として多大なリスペクトをあつめた。また大型音楽フェスティバル『FUJI ROCK FESTIVAL』のシンボル的な存在でもあり、同フェスのテーマソング「田舎へ行こう!Going Up The Country」も書き下ろした。2009年、癌性リンパ管症のため58歳で亡くなった。
清志郎はとにかく刺激的だった。「サリン」「あこがれの北朝鮮」(THE TIMERS)といった放送禁止歌の数々。コラボ曲の「い・け・な・いルージュマジック」(1982年)では坂本龍一と、「パーティーをぬけだそう!」(1996年)では篠原涼子とキス。いずれも堂々とやってのける大胆さに驚いた。雑誌『ROCKIN’ON JAPAN 特別号 忌野清志郎 1951-2009』に収録されている坂本のインタビューでは、生番組でいきなり清志郎がディープキスを仕掛けてきたと明かしている。「周りはびっくりしたけど。昔だから音楽番組って生だったからね。あ、今もそうか。『Mステ(ミュージックステーション)』とか。でもそういうことやる人いないもんね」と坂本は語っている。確かに今、MステでやったらSNSが荒れそうだ!
今回のミュージックビデオを鑑賞していて改めて感じたことがある。清志郎は若者たちを特に意識していたのではないか、という点(ずっと前から清志郎が好きな人からすれば「何をいまさら」な話だけど)。メッセージを届けるためには、いかにして自分に目を向かせるか。話題性、ハプニング、キャッチーさ。いろんな要素を組み込むトリッキーさを持ちつつ、鳴らす音楽はきわめてまっすぐだった。疑問があれば、それをそのまま曲にした。抗議の声を歌に変えた。どうにかして物事を動かそうとしていた。