GRAPEVINE、2年4カ月ぶりの新曲「雀の子」はさらなる驚きへの布石か 挑戦的な言葉とサウンドで表現されるカオス
GRAPEVINEが2年4カ月ぶりの新曲「雀の子」をリリースした。アルバム『新しい果実』の先行シングルとして2年4カ月前に出たのが「ねずみ浄土」だったから、「小さな生き物シリーズ?」などと思ってしまうが、今回は小林一茶の名句「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」を引用している。だが、この句から連想するようなほのぼのとした情景を思い浮かべるような歌詞ではない。むしろ逆で、暴れ馬が逃げ惑う雀たちを蹴散らして暴走しているよう。アグレッシブなサウンドが馬に鞭を入れカオスを描き出す。歌詞の構成は1番・サビ・2番・サビ、とシンプルだが全編関西弁で、えらく伝法な物言いだ。田中和将(Vo/Gt)は、一体何を思ってこんな曲を書いたのだろうか?
田中は、様々な固有名詞を歌詞に引用してイメージを膨らませるのが得意だが、この曲のようにストレートな引用は珍しい。しかも、その意味を覆すようなものになったのは、「歌」という表現手段だからだ。穏やかに読み上げるのではなく、言葉を激しく吐き出すように歌うことで、同じ文字の並びが全く違う感情を持つ。1回目のサビでは引用した句の後に〈怒りと哀しみをぶつけたんねん〉とストレートな言葉が続く。一茶の平易な句に続けるには、凝った言葉や言い回しはバランスが悪いと思うのは自然だろう。しかし田中のことだ、「怒りと哀しみをぶつけたい」ために、一茶の句を持ってきたのではないかと想像したくなる。関西弁で伝法な物言いをするのも、そのための布石なのではなかろうか。
神戸生まれ枚方育ちの田中がコテコテの関西弁で歌詞を書いても当然とは思うが、今まで書いたことはないと思う。そもそも関西弁に限らず地方の言葉で歌詞を書くのは、日本のポピュラーソングではトリッキーな手法とみなされている。地方色が強く出過ぎて、そのことばかり注目されるということもあるし、標準語の方が全国均一に伝わるという前提があるから、地方色を出すことで均一性が薄くなるとも思われるようだ。もちろん藤井風のように、方言を使うことで個性を出すという方法もある。またウルフルズ「大阪ストラット」、くるり「京都の大学生」のように地元の情景描写と重ねる歌も少なくない。「悲しい色やね」のヒットで知られる上田正樹には、70年代に組んでいた“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”の「とったらあかん」、有山じゅんじと歌った「俺の借金全部でなんぼや」など日常感たっぷりの曲がある。余談になるが、「大阪ストラット」の作詞は岩手出身の大瀧詠一(補作詞:トータス松本)、「俺の借金全部でなんぼや」は青森生まれの三上寛が作詞している。コテコテの関西弁の歌を他の土地で育った人が書いているのが面白い。
話が脱線したが、田中もここで関西弁を使うことは大きなチャレンジだったはずだ。しかし、前述したような落としどころにたどり着くために必要な手段として使ったとすれば、腑に落ちてくる。歌い出しは大阪の新世界あたりを闊歩するおっさんの独り言めいて、何の話をしているのかよくわからない。何が〈三十万円〉なのか、なんで〈本気〉なのか。〈わてらは放蕩中年〉と言われなくても、ここまで聴けばわかるわい、と突っ込みたくなるところだが、〈今晩どうや?〉と厚かましい。そしてサビに突入し〈そこのけそこのけ御馬が通るで〉と雀の子を蹴散らしていく。2番では金を使い果たし連れに逃げられ、〈わてと来て遊べや親の無い子〉と、一茶のもう一つの名句「我と来て 遊べや親の ない雀」をもじって自嘲する。そしてサビでは〈憂き世の現を暴いたるで〉と大見得を切る。だが1回目のサビより1行分歌詞がない。