浜田省吾、35年以上を経ても色あせないライブパフォーマンス 岩熊信彦氏が語る、人を惹きつける魅力
35年前に5万5千人が集まった浜田省吾のワンマンコンサートの模様が『A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988』として蘇った。16mmフィルムで撮影した映像から4Kデジタル・リマスターと5.1chサラウンドミックスに変換、110分のライブ映像作品として劇場公開される。
この作品のプロデューサーである岩熊信彦氏は、浜田とは40年を超え強い絆を結んできた。九州のプロモーター「くすミュージック」のスタッフとしてソロデビュー間もない浜田と出会い、浜田の個人事務所「Road&Sky」設立時のメンバーの一人として参加、以来コンサート制作を中心に浜田の活動に深く関わって来た人である。当然この映像作品となった静岡県浜名湖畔の渚園で開催された『A PLACE IN THE SUN at 渚園』の制作にも関わり、今回の映像化にも尽力した。その岩熊氏から35年前から現在の劇場公開に至る経緯、そしてアーティスト・浜田省吾について語ってもらった。(今井智子)
『ウッドストック』みたいな空気感でできるといいよね、とよく話していた
ーー1988年当時から渚園での公演を撮影し、作品化しようと思われていたんですか。
岩熊信彦(以下、岩熊):もともと作品を作ろうという気持ちはなかったんです。ただ浜田に関して映像はすごく大事にしてきたんです。家庭用ビデオが出たばかりの頃で、画質も売り物になるようなものではなかったけれど、1983年8月に福岡の海の中道海浜公園で行った『A PLACE IN THE SUN』を家庭用ビデオで撮影していた。その翌年の横浜スタジアムを経て、僕はもう1回野外で『A PLACE IN THE SUN』をやりたいと思っていて、渚園でやることになった時、ビデオでなくフィルムで撮影しようと。(結果的に)作品になればいいんじゃないの? ぐらいの気持ちで、記録として撮ろうという気持ちからスタートしてるんです。
ーー作品にするというより記録の意味合いが大きかったんですね。
岩熊:そうです。だから16mmのカメラを13台入れて撮影したんですが、あのライブの規模にしては少ない台数なんですよ。16mmのフィルムって1ロール11分位しか撮影できないから、2曲も撮影したらフィルムを入れ替えなくちゃならない。「僕と彼女と週末に」のように長い曲なら1曲しか撮れない。そのフィルムの入れ替えの手間もあるから、当日は30曲ほど演奏したんですが、最初から20曲ほどを選んで撮影チームにリストを渡して撮影しているので、全曲は撮れていないんですよ。
ーーその20曲を選ぶ基準は何かあったんですか。
岩熊:僕が独断と偏見で(笑)。当時、勢いが良かった曲とか、4時間のライブですから昼間の早い時間にやる曲、夕方にやる曲、夜、と時間帯を追って選んだつもりなんですけど、僕がポリティカルな曲やメッセージ性のある曲が好きなもので、そっちに寄ってしまったかもしれません。昼間には「ラストショー」とか明るい曲をいっぱいやってるので、そういうものがあと1曲入ったら全然印象が違ったかなと思いますけどね。
ーーその選曲に浜田さんご自身は? この曲を撮ってほしいといったリクエストはなかったんでしょうか。
岩熊:これを撮りますとリストを見せて、浜田も「いいんじゃないの」って。本当はもっと撮ってほしいと思っていたでしょうね。ただ当時は弱小プロダクションでしたから、フィルムで撮影するにはお金がかかるわけですよ。
ーーそのフィルムから今回の『A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988』が制作され、劇場公開されます。35年の間眠っていた映像が日の目を見た経緯を教えてください。
岩熊:2017年に劇場公開した映画『SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2015-2016 旅するソングライター “Journey of a Songwriter”』ができた時に、監督の板屋(宏幸)くんから「渚園のフィルムが残ってるんですよ。あれは全くパッケージ化されていないし、あのフィルムの全貌を知る人はいないんです」と。1989年に出した最初の映像作品『ON THE ROAD "FILMS"』に7曲は入っているんですけどね。それで、「そうだよね、映画にできるかもしれないね」と。ただ、そのままでは映画館で上映できないので4Kテレシネに変換するのが大変でした。
ーー16mmフィルムからどのように編集されたんでしょう?
岩熊:倉庫に保管されていたフィルムを出して、古いものなので痛んだり汚れたりしているものを、大阪のIMAGICA Lab.に頼んでクリーニングしてもらうのに2カ月強。それが戻ってきてから、フィルムは1秒24コマあるので、全部1コマずつ4Kに撮り直す。それを13台のカメラと20曲分。この作業に1年以上かかりました。よくそんなことやったなあと(笑)。それが終わったら、フィルムには音が入っていないので、仮ミックスした音声と映像を合わせていく。一つひとつのカメラの映像の浜田の口を見ながら音を合わせていくんです。それに数カ月かかった。そのあとの編集作業に入るまで約2年かかりました。
ーー大変な作業ですね。そうなるとカメラが13台でむしろ良かったかもしれないですね。
岩熊:そうなんですよ。浜田も言ってたんですけど、13台だと逆に潔いからチョイスが早く決まるじゃないですか。板屋くんは簡単ではなかったと思うけど、そういう意味ではカメラが多くなかった分だけ1カット1カットの映像に気持ちを入れて編集できたと思います。浜田の表情とか、フィルムでなければ撮れない。ビデオでは撮れなかったと思う。
ーー岩熊さんから見て、この作品の見どころはどういったところでしょう?
岩熊:僕が思うのは、浜田の表情。あと声です。最初から最後まで目一杯歌ってるんですよ。最後は声が枯れて、絞り出している。鬼気迫るものがあるんです。最近のコンサートは鬼気迫ったり命をかけるぐらいのものが少ないと思う。当時のコンサートは全部アナログでしたから、大袈裟ですが1ステージに命がけというようなことがたくさんあったんです。
ーー渚園の公演時間は4時間ぐらいですよね。そのことにも驚きます。今はソロでそんなに長いライブをやる人はいないのでは?
岩熊:いないですね。やれないんですよ。浜田は当時35歳。1988年の春から始まったツアーで100公演やる中での夏の渚園のライブで、浜田が一番活動的でエネルギッシュだった時期なんです。浜田は1976年にソロデビューして第1期は70年代、第2期が6作目『Home Bound』(1980年)から、第3期が『DOWN BY THE MAINSTREET』(1984年)、『J.BOY』(1986年)、『FATHER'S SON』(1988年)の頃と僕は思っていて、その第3期の区切りを、渚園のコンサートでできて良かったなと思います。
ーーそういうタイミングだったんですね。渚園でのライブは浜田さんが初めてで、いろいろご苦労もあったと思いますが。
岩熊:苦労話をするときりがないですけど、5万5千人を前にするコンサートに浜田本人は相当ナーバスになっていたし、1対5万5千では生半可なライブはできないと、自分を追い込んでいた。だから本人は楽しかったとは一言も言わなかった。「自分は浜田省吾というアーティストに徹してパフォーマンスする、一語一句歌詞を間違えないように」と、それぐらい集中していたんです。30曲やったんですけど、1曲も歌詞を間違えていない。それは本当にすごいと思います。
ーー映像を拝見しましたが、浜田さんは広いステージを実にアクティブに動いてパフォーマンスされ、声も出ていて迫力のあるライブでした。
岩熊:ステージは横幅100mで花道も40〜50mありますが、それをずっと駆け回ってる。映画は20曲ですが実際は30曲ですから、もっと走ってるんです。本当にすごいなと思います。映画を見ていただければ、浜田の表情とか気持ちの入れようというのは鬼気迫るものがあって、すごく胸を打たれます。35年以上前の曲達ですが、まさに今の時代の歌詞のように言葉が飛んでいくと改めて感じます。
ーーそのステージセットもすごいですね。最初の方でステージ後方のイントレ(足場)の上に照明さんがずらりと並んでいるのを見て驚きました。今なら全部デジタルで動かしますよね。あれが当時のライブの凄さですね。
岩熊:そうなんですよ。高さ23mのところに22人が乗っているんです。「僕と彼女と週末に」をやると浜田と決めていて、そこから演出がスタートしています。あの曲をどういう風に見せるか、生かすか、というところから、前後の構成、全体の流れを考えていったんです。あの曲のところで後ろにオブジェが出てくるんですけど、そのために後ろの高さ23m、幅40mのイントレが左右にあって、それが開いていくわけです。ところが実際に作ったらあまりの重さに下の車輪が割れてしまった。急いで作り直して前日のリハーサルで使ったらまた壊れてしまった。そこでもっと硬い鉄で作り直して、当日の客入れ中もジャッキアップして取り付けしてたんです。本番で開かないかもしれないが、全スタッフここまでやってきたのだから開く開かないの結果は関係なく、それぞれの立場で頑張ってやろうと。本番ではうまく開いたので感動しました。終わってから見たら、いくつかヒビが入っていましたけど。あの時事故が起きていたら、僕はここにいないかもしれない。
ーー映画に「僕と彼女と週末に」を披露する場面もありますが、その時のお客さんの反応はどうだったんでしょう。
岩熊:あの前後はメッセージ性の強い曲が多いので、「僕と彼女と週末に」では多くの人が泣いて感動していたと思いますね。
ーーお話を聞くと、そのイントレが開く感動的なシーンを特にアップで撮ったりしていないのはちょっと残念ですね。
岩熊:そうなんですよ。でもこの映像が2年かけてできたとか、そういうことを知って観ると、また違う見え方になりますよね。「僕と彼女と週末に」は長い曲なので、次々にフィルムが終わっていくんですよ。最後に1台だけ残っていて、これが終わったら映像が繋がらない、という時に最初に終わったカメラにフィルムが入ってまた回り出す。そんな曲が2曲あるんですよ。奇跡のような綱渡りで、撮影人の熱い想いでできた作品だと思います。
ーーこうしたお話から連想するのは、『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』やThe Beatlesの『ルーフトップ・コンサート』だったりします。そうした作品への対抗心みたいなものもあったのかなと思いますが。
岩熊:対抗心はないですよ。すごすぎるもん(笑)。でも浜田とは、『ウッドストック(・フェスティバル)』みたいなことをやりたいよね、ああいう空気感の中でコンサートができるといいよねというのは、83年頃によく話していました。
ーー野外での大規模コンサートというこだわりは、やはり『ウッドストック』などの影響なんですね。
岩熊:そうなんですよ。ただ野外は晴れてないと楽しくないじゃないですか。渚園は奇跡的に、前日が雨で終わってからも雨、当日だけ晴れたんですけど、雨が降ったら辛いだけですから。その気持ちがあったので、それから10年以上野外ライブをやらなかったんです。1999年に昭和記念公園でやったんですけど、雨天順延にしようと。そうしたら集中豪雨が来て、当日の朝には会場で鴨が泳いでました(笑)。