野宮真貴×高浪慶太郎が振り返る、1990年代のピチカート・ファイヴ 時代を創る音楽が生まれるまでのバックストーリー

野宮真貴×高浪慶太郎が語るピチカート

 ピチカート・ファイヴの配信プロジェクト、「配信向けのピチカート・ファイヴ」が、9月22日にスタートする。「その1」として配信されるのが「高浪慶太郎の巻」。1985年のデビュー時から、小西康陽と共にオリジナルメンバーとして活動し、ピチカート・ファイヴの屋台骨をつくった高浪慶太郎が、1991年から1993年にかけて残した名曲13曲は、三代目ボーカリストに野宮真貴を迎え、渋谷系が盛り上がった時期とも重なる。ここでは、現在は長崎に住みながら音楽活動を続ける高浪慶太郎と、9月21日にデビュー40周年を迎える野宮真貴に当時のピチカートを巡る状況と今回の配信曲についておおいに語ってもらった。(佐野郷子)

「真貴ちゃんの加入は大賛成でした」(高浪)

ーー「配信向けのピチカート・ファイヴ」開始にあたり、お二人が在籍した時代のピチカート・ファイヴを曲とともに振り返っていきたいのですが、そもそもの出会いはいつ頃だったんでしょうか?

野宮真貴(以下、野宮):初めて会ったのは、『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)のレコーディングに遊びに行ったときでしたね。そのアルバムに私が在籍していたポータブル・ロックの鈴木智文さんと中原信雄さんが参加していて、小西(康陽)さんに「コーラスで歌ってみない?」と言われたのが最初です。それから、ライブにもコーラスで参加するようになって。

高浪慶太郎(以下、高浪):当時は田島貴男くんがボーカルにいたので、ツアーで真貴ちゃんにコーラスをお願いしてから仲良くなっていきましたね。

野宮:初代ボーカリストの佐々木麻美子さんがいた頃のピチカートのライブを観客として一度観に行ったことはあるけど、その頃はまだ面識はなかったんですよね。

高浪:僕もポータブル・ロックのライブは観ましたよ。

野宮: 慶太郎くんと小西さんとポータブル・ロックの鈴木智文さんは青学(青山学院大学)で同じサークルだったんでしょ?

高浪:そう。「Better Days」というサークルでみんな知り合った。だから、お互いに機材の貸し借りをしたり、ポータブル・ロックのデモテープを聴かせてもらったりして、かなり影響を受けましたよ。

ーー『女王陛下のピチカート・ファイヴ』の「衛星中継」に野宮さんが初参加して以降、『月面軟着陸』(1990年)収録の「皆笑った」では、高浪さんと野宮さんのデュエットもありました。

高浪:そうでしたね。その後に出したシングル「ラヴァーズ・ロック」(1990年)は、もう真貴ちゃんがメインボーカルだったけど、まだ正式なメンバーではなかったのかな?

野宮:田島くんがオリジナル・ラブの活動に専念することになって、小西さんからメインボーカルをやらないかという話をされたんです。

高浪:僕、真貴ちゃんから相談されて、都立大学の天ぷら屋さんで飲みながら話した記憶がある(笑)。ピチカートは元々、女性ボーカルではじまったバンドなので、僕も個人的に大賛成でしたね。小西さんは、真貴ちゃんのボーカルに加えて、ビジュアルの要素も大きなポイントだったんじゃないかな。

野宮:小西さんには、「歌わなくてもステージにいてほしい」とか、「僕はきみをスターにできると思う」みたいなことを言われた気がします(笑)。

「初めて作詞をしたのが慶太郎くんの曲だった」(野宮)

ーーボーカリストに野宮さんを迎え、レコード会社を移籍した当初はどのようなビジョンを描いていたんでしょうか?

高浪:日本コロムビアに移籍して、1991年はTVドラマの『学校へ行こう! LET'S GO TO SCHOOL』のサントラにはじまり、5カ月連続でリリースをすることになって、3枚のミニアルバムを出した後、アルバム『女性上位時代』というプランでした。そのときにまとめてビジュアル素材をまとめて撮影するために、パリに行ったんですよ。

野宮:ボーカルが変わるのって、バンドにとってはすごく大きいじゃないですか。私が三代目のボーカリストになって、ファッションやビジュアルもふくめて、雑誌のようにCDをリリースしていく作戦でしたね。

高浪:そう。新生ピチカート・ファイヴはサウンドもビジュアルも常に露出し続けることがテーマだった。レコード店に行くと、いつもピチカートの新譜が出ているという感じで。

ーー三代目襲名お披露目興行のようですね(笑)。

野宮:そうですね。私が入ったお披露目ライブは、インクスティック鈴江ファクトリーだったんですけど、そのときはまだ初期のピチカートの曲も歌っていましたね。

高浪:真貴ちゃんが加入してすぐに僕が交通事故で怪我をしてしまい、そのライブが久しぶりの復活だったんです。ギブスの上に衣装を着て、あのときは大変だった。

ーー今回は、1991年のミニアルバム『最新型のピチカート・ファイヴ』、『超高速のピチカート・ファイヴ』、『レディメイドのピチカート・ファイヴ』から高浪さんの曲が5曲が配信されます。

高浪:配信にあたって、小西さんがまずは僕がつくったピチカートの曲を配信するのはどうだろうと提案してくれたんです。選曲に関しては、サンプリングの使用について問題のない曲から選んだんですが、さすがに30年前のことなので、僕も記憶が曖昧なところはあるんですけどね。

ーー野宮真貴さんというボーカリストを迎えて、高浪さんは曲や歌詞に関して変化したところはありましたか?

高浪:歌詞に関しては、初期はほとんど小西さんが書いていたんですが、全部書くとなるとなかなか大変な作業でね。徐々に自分の曲は自分が歌詞も書くようになっていったんですが、田島くんから真貴ちゃんになって、主人公が女性になったことで、僕的には書きやすくなったかな。「ブリジッド・バルドーT.N.T.」は、タイトルだけ思いつかなくて小西さんが付けたんです。

ーー「昨日・今日・明日」では、野宮さんが作詞を手がけていますね。

野宮:私は1981年にソロデビューして、ポータブル・ロックを経て、ピチカートに加入したんですが、それまで自分で歌詞を書いたことがなくて、初めて作詞をしたのが慶太郎くんの曲だったんです。

高浪:「昨日・今日・明日」は、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの映画がヒントになったんですが、井上順さんの70年代のヒット曲にも同名曲があるんですよ。僕は日本の歌謡曲やポップスもすごく好きだったんで。

野宮:慶太郎くんからは、「『昨日・今日・明日』というタイトルなんだけど、何か書いてよ」といきなり振られて、必死になって書きました。

高浪:真貴ちゃんの書く歌詞は飄々としていて僕は好きでしたよ。

ーーブリジッド・バルドーのような女優や映画からインスパイアされたセンスなどは、いかにもピチカート・ファイヴらしいですね。

高浪:そうですね。今でこそ珍しくないけど、当時はそういう趣味を散りばめていた音楽がそれほどなかったので。デビューした頃から、そういうところは変わっていないんですが、真貴ちゃんには、あえてパンチの効いた歌い方をしてもらったので、それまでのピチカートとは印象が随分違うんですよね。

野宮:歌入れのときは、小西さんに「もっとパンチを」とよく言われた気がします。その最たる例が「スウィート・ソウル・レヴュー」でした。

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