小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード7 パリーキャパとゲルダ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード7

エピソード7
パリーキャパとゲルダ ♯3

 翌朝、アメリカン・ホスピタルを訪ねた紫郎は、鮫島の意識が戻らないこと、金田はほぼ即死だったことを知らされ、そのまま引き揚げてきた。今のところ新聞やラジオのニュースにはなっていない。坂本とヴォーダブルが手を回したのだろう。それにしても、いったい誰が襲撃したのか。紫郎には見当もつかなかったが、坂本には心当たりがあるのかもしれない。
 紫郎はその足で日本大使館に向かった。昨年、佐藤尚武大使に挨拶するため一度だけ来たことがある。父親代わりの深尾隆太郎が旧友の佐藤大使に宛てて「パリに留学する紫郎をよろしく頼む」と手紙を出したと聞いていたから出かけたのに、その日は大使に緊急の用事が入ったらしく、面会は5分足らずで打ち切られてしまった。
 モーリス・アロンは富士子らしき若い日本人をタクシーに乗せ、大使館で降ろしたと話していた。大使館に行けば富士子の消息が分かるかもしれないと思って、ずっと再訪の機会をうかがっていたのだが、なかなか口実が見つからなかった。
 チャンスをくれたのは伊庭家の長男マルセルだった。彼の少々たどたどしい日本語が耳に残っている。
「シロー、お願いがあります。絹江さんに会って、これを直接渡してきてくれませんか。できれば、彼女の気持ちを聞き出して……」
 紫郎はマルセルが気合を入れて毛筆でしたためたという手紙を託されたのだった。
「北大路の長女、絹江でございます」
 絹江は紫郎を5分ほど待たせて応接室に現れた。大使館の幹部、参事官の娘だ。色白の丸顔に目尻の下がった細い目、ほどよく丸みを帯びた体つきは、大和撫子の典型だなと紫郎は思った。
「いえ、こちらこそ、お時間をいただきまして。川添紫郎と申します」
「川添さん、伊庭のおじさまから私宛てに預かっているものがあるとおっしゃっていましたが、本当はおじさまではなく、マルセルさんの差し金でしょう?」
「は、はあ。すっかりお見通しですね」
 両手で恭しく手紙を差し出した紫郎の仕草を見て、絹江はクスッと笑い、笑いはやがて溜め息に変わった。会話が途切れて静寂が訪れ、さっきからピアノの音が小さく鳴っていたことに紫郎は気づいた。題名は忘れてしまったが、これはエリック・サティだ。
「絹江さん、そんなに大きな溜め息をついて……。どうなさったんです?」
「マルセルさんはとても優しい方ですよね」
「え、ええ、裏表のない、人懐こい男で、すぐに仲良くなりました」
「そうですよね。そんな素晴らしい方が私のことを……。世の中、うまく行きませんね」
 絹江はまた深い溜め息をついた。サティの風変わりなメロディーが続いている。
「うまく行かない……といいますと?」
「私の口からは言えません」
 絹江は目の前の紅茶をティースプーンで何度もかき回した。
「つまり、マルセルの気持ちはうれしいけれど、絹江さんには他に思いを寄せている方がいるということですね?」
 絹江はスプーンを置いて、笑っているような、泣いているような顔をして「そうね」とつぶやいた。
「絹江さんの思いはその人に受け入れられないというわけですか。マルセルの思いがあなたに届かないのと同じように」
 絹江はまた泣きそうな顔で「そうね」と言ったきり、下を向いてしまった。サティの音楽が終わり、フランス語のニュースが聞こえてきた。どうやらラジオだったようだ。
「ご、ごめんなさい。変なことを言ってしまいました」と紫郎が頭を下げた。
「いいえ、その通り、おっしゃる通りなんですよ」
 彼女は急に顔を上げ、意を決したように目を見開いた。
「あの方は私には目もくれず、私の同級生にご執心で……」
「同級生?」
「はい、女学校時代の。事情があって、今は彼女もパリに来ています。あの方の求婚をあっさり断ったのですよ。それでもあの方は彼女を諦めきれないようで、相変わらず私には目もくれないのです」
 紫郎ははやる心を懸命に抑えていた。その同級生の名前を訊きたかった。その女性こそ富士子ではないのか。ドイツの情勢を伝える短いニュースが終わり、また音楽が流れてきた。
「あの方というのは、相当なお立場にある方ですか」
 いつもは単刀直入に切り込むのに、富士子のことを訊きだせない自分を紫郎は呪った。
「お名前は申せませんが、さる伯爵家の御曹司です。来月、英国に留学されるそうです。それで一緒に英国に来ないかと誘われたのです。私ではありませんよ。林田さん……」
 絹江はしまったという顔をして、自分の口に手を当てた。やはり村上明の言った通り、富士子の名字は森田ではなく、林田だったのか。つまり彼女は紫郎に本名を明かさなかったことになる。ラジオの音楽はよく知っているシャンソンだった。パルレ・モア・ダムール。富士子によく似たリュシエンヌ・ボワイエの歌う「聞かせてよ愛の言葉を」だ。
「林田さん……というのが、同級生のお名前ですね?」
「ああ、失敗、失敗。口の軽い女だと思わないでくださいね」と絹江は笑った。品の良さと茶目っ気を兼ね備えた好ましい女性だと紫郎は思った。
 マルセルは絹江に恋をして、絹江は伯爵家の御曹司に思いを寄せ、御曹司は林田富士子に入れあげ、この自分も富士子を忘れられない。ならば富士子はいったい誰を思っているのだろうか。
「御曹司の求婚を断るぐらいですから、その林田さんには誰かほかに意中の男性がいるのでしょうね」
 ああ、ついに訊いてしまった。パルレ・モア・ダムール。
「さあ、どうでしょう。最近、小さな写真機を手に入れて、デモがあるたびに撮りに出かけているようです。写真に興味があるのか、社会問題に関心があるのか……。両方かな。とにかく彼女の口から男の人の話など聞いたことがありません。女学校の頃からそうなんですよ。新しい時代の自立した女性……なのでしょうね、彼女は」
 絹江の話の通りならば、富士子は船で知り合った紫郎という男の話もしていないことになる。ラ・クーポールに入るたびに、富士子の姿をきょろきょろと探していた自分が急に滑稽に思えてきた。そういえば太郎が「なあ、シロー。女という生き物が男と同じようにロマンチストだと思ったら大間違いだぞ」と偉そうに断言していた。あいつの言う通りかもしれない。もう富士子は自分のことなどすっかり忘れて……。
「ところで絹江さん、マルセルにはどう返事をしましょうか」
 紫郎は落ち込んだ気持ちを取り繕うように事務的に言った。
「実は父の転勤が決まりまして……。今度はカナダです。私はパリに残って絵の勉強を続けるなり、日本に帰るなり、好きにして構わないと父は言ってくれているのですが」
 絹江は「いったい、どうすればいいのでしょう」と目で訴えていた。自分のことなのに、自分では決められない性格なのだろう。
「北大路参事官はカナダ大使にご出世なさるのですね。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます。出世といえるのか、私には判断できませんが」
「マルセルには、脈がないからあきらめろと言っておきますよ」
「そ、そんな……。マルセルさんはとても優しい方なんですよ」
 絹江は両手で顔を覆った。
「男はロマンチストですから、彼はいつまでもあなたを想い続けますよ。絹江さんにその気がないのなら、はっきり言ってあげた方がいいのです。傷つくかもしれませんが、心の傷は時間が癒やしてくれます」
 紫郎は自分に言い聞かせるように、きっぱりと言い切った。
 リュシエンヌ・ボワイエの歌はいつの間にか終わっていた。富士子の面影がリュシエンヌの顔に重なって、はっきり思い出せなくなっていることに紫郎は気づいた。マルセイユ駅で別れてから1年。紫郎がパリに来ていることは知っているはずなのに、富士子が自分に連絡を取ろうとした形跡は全くない。ラ・クーポールでアグネスには何度か会ったのだが、あの背の高い日本女性はその後見かけなくなったと言っていた。
 薄着をしてきたせいか、大使館からの帰り道は秋風が身に染みた。

モンパルナスのカフェ「ル・ドーム」のテラス席にいるゲルダ(左)とアンドレ(フレッド・スタイン撮影、2人は後にゲルダ・タロー、ロバート・キャパと名乗る)

 紫郎と井上は昨年の暮れに日本館を出て、モンスーリ公園近くのレイユ通りに建つ白壁の家で共同生活を始めていた。日本式に数えれば、3階に家主の画家夫妻が住み、1階はガレージになっている。2階は25畳ほどの部屋にキッチンとシャワーのついたアトリエで、紫郎と井上が2人で住むには十分すぎる広さだった。道路をはさんだ向かい側には、水道の貯水池が見える。
「シロー、お帰り。どうだった?」と井上が言った。
「ダメだ。全くダメだ」
「えっ? 鮫島さんって人、やっぱり助からなかったの?」と井上がソファーから跳び上がった。
「ああ、いや……。そっちの話か。意識不明が続いている。面会謝絶だった」
 紫郎はテーブルに置いてあるグラスを手に取り、くるくると回した。飲みかけの赤ワインが半分ほど残っていた。
「何だよ、そっちの話って。あっちとか、こっちの話もあるのか?」
「いや、何でもない」
 その瞬間、キッチンの陰から急に人が飛び出してきた。
「ヤア、シロー、ヒサシブリ」
 左右の眉毛がつながった彫りの深い顔立ちの小柄な白人が、あっけにとられている紫郎の肩をポーンとたたいた。
「アンドレじゃないか。びっくりさせるなよ。来ていたのか」
「ボクダケジャナイヨ。モウヒトリイル」
 アンドレ・フリードマンが後ろを向いて手招きすると、短髪の若い女性が大笑いしながら出てきた。
「ごめんなさいね、シロー。イノとアンドレがたくらんだイタズラよ。シローが帰ってきたら急いで隠れろだなんて、まるで子どもね」
 フランス語がおぼつかないアンドレと違って、ゲルダ・ポホリレはドイツ語、フランス語、英語を流暢に操った。
「ゲルダ、君はアンドレと一緒に住んでいるのかい?」
 イタズラが成功して大喜びしている井上とアンドレをにらみつけるように、わざと怖い顔をしながら紫郎が訊いた。
「ええ、エッフェル塔の近くに安いアパルトマンを見つけたの。部屋がひとつしかなくて狭いけど、新しくて清潔なのよ」
 ゲルダは紫郎からグラスを奪って残りを飲み干した。彼女とアンドレは1年前に知り合ったというが、夏のカンヌの旅を機に急接近したようだ。
「シロー、ゲルダノシゴトガキマッタヨ。スゴイダロウ」とアンドレが踊るような仕草をしながら、歌うように言った。
「仕事? 写真の?」
「アリアンス・フォト・エージェンシーの助手だってさ」と井上が横からフランス語で説明した。
「フォト・エージェンシーって、雑誌の編集者に写真家を紹介する仕事だろう?」
 紫郎は空になったゲルダのグラスにワインを注いでやった。
「うん。マリア・アイスナーっていう若くて綺麗な女性が1人で切り盛りしているらしいよ。ゲルダはいわば社長秘書として雇われたんだね。その女社長はアンドレがベルリン時代に知り合った旧友だそうだよ。なあ、アンドレ?」
 井上は唐突にアンドレの手を取って指相撲を始めた。
「マリアモビジンダケド、ゲルダノホウガカワイイダロウ?」
 アンドレがゲルダを見ながら話しているすきに、井上が彼の親指を押さえつけた。
「勝った、勝った」
「ズルイヨ、ハンソクダ、モウイッカイ!」
 紫郎は無邪気に遊んでいる2人を見て肩をすくめながら「肝心のアンドレの仕事はどうなんだ。撮影の依頼は来ないのか」と訊いた。
「シロー、そこなんだよ、問題は」
 井上がアンドレの指を振りほどき、急に真顔になって紫郎に詰め寄ってきた。
「ど、どうしたんだよ、イノ」と紫郎はたじろいだ。
「僕たちでアンドレを何とかしてあげようよ」と井上が言った。
「僕たちでって言ってもなあ。アンドレの写真の腕は確かだと思うよ。あのトロツキーが演説している写真を見ただろう? こいつは社会人としては頼りないけど、カメラマンとしては底知れぬ才能を持っているぞ。それは間違いない」
 紫郎はアンドレの肩を人差し指で小突きながらそう言った。
「僕たちの知り合いでなんとかできる人物がいるとすれば……」と井上が腕を組んで考え込んでいると、紫郎が「イノ、いるじゃないか、1人。あいつだよ」と目を輝かせて叫んだ。
「そうか、城戸か」と井上がテーブルをポンとたたいた。
 紫郎と井上が「城戸、城戸」と言いながら手を取りあって踊り出すと、ゲルダとアンドレも「キド、キド」と節をつけて歌い始めた。
「ところでキドって何なの? 日本のお菓子かしら」とゲルダが訊いた。
「キドを食べたらおなかを壊すぞ」と紫郎がまた笑って「大阪毎日新聞っていう日本の新聞社のパリ支局にいる特派員さ。トロツキーを撮った売り出し中のフォト・ジャーナリストだって紹介して、あいつから何か仕事をもらおうじゃないか」と言った。
「ソ、ソンナコトデキルノ?」とアンドレが身を乗り出す。
「大丈夫、僕たちに任せてくれ。よし、善は急げだ。アンドレ、カメラを持って一緒に来いよ。これから毎日新聞に押しかけよう」
 紫郎は厚手の上着を羽織り、さあ、さあ、と3人を促した。
「チョ、チョットマッテ。ボクノライカ、シチニイレテルンダケド」
「はあ?」
「質に入れただって?」
 紫郎と井上は同時に立ち止まり、ゆっくり振り返ってアンドレをにらんだ。
「そうなのよ。安いアパルトマンだけど、それでも家賃が払えなくて……。私の給料が出たら取り戻すわ」とゲルダが小さくなって言った。
「分かった、分かった。毎日新聞のライカを借りればいいさ。城戸はゲルダのような美人に弱そうだから大丈夫だよ。よ~し、面白くなってきたぞ。世界にはばたくフォト・ジャーナリストの誕生だ」と井上が気勢を上げると、紫郎とゲルダも歓声を上げた。
 当のアンドレも今ひとつ事情がのみこめないという顔をしながら、一緒に何度も「ブラボー」と叫んでいる。
 世界にはばたくフォト・ジャーナリストか。うん、いいぞ。ひょっとすると、これは正夢になるかもしれないと紫郎は思った。(つづく)

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