村井邦彦が語る、LA交遊録と若き音楽家への伝言「西洋音楽をよく知る必要がある」

村井邦彦が語る、LAの交友録

 名曲「翼をください」などを世に送った作曲家として活躍する一方、荒井由実、赤い鳥、YMO、ハイ・ファイ・セット、ガロなど錚々たるアーティストのプロデュース、そしてアルファレコードの設立者としても知られる日本の音楽界の立役者、村井邦彦。彼の初エッセイ『村井邦彦のLA日記』が音楽業界を中心に注目を集めている。1990年代前半から活動の拠点をLAに移した村井邦彦の交友録が、貴重なエピソードと共に明かされた同書は、日本のポピュラー音楽史における証言としても重要性を持つ。一時帰国したタイミングで、村井邦彦本人にインタビューを行い、同書の中でも特に興味深い話を中心に、現在の日本の音楽シーンについての感想や、実子である映画監督/映像作家のヒロ・ムライについても話を聞いた。(編集部)

「年上の方から昔話を聞くのが大好きだった」

ーー本書『村井邦彦のLA日記』は、同人誌『月刊てりとりぃ』(2018年夏に終刊)に2011年から連載していた「LAについて」を書籍化したものです。そもそも、この連載が始まった経緯は?

村井:『月刊てりとりぃ』の連載陣の多くは、昔からの仲間です。学校の先輩で作曲家の桜井順さん、作詞家の山上路夫さん、『村井邦彦のLA日記』の表紙の絵を描いてくれた宇野亞喜良さんもそうですし、日本アニメ界の元祖みたいな古川タクさんもそう。僕より若い人だと、ヒップホップのことは何でも知っている大学教授の大和田俊之さんとか。そういう色々な方が書いている同人誌です。何か書きませんかと濱田高志編集長にいわれて書き始めたら、あっという間に7年半くらい経ってしまいました。『月刊てりとりぃ』は面白い同人誌だったので、僕の本以外にもこれから何冊か書籍化されるものがあるかもしれませんね。

ーー『月刊てりとりぃ』の連載は、後続となるWebサイト『週刊てりとりぃ』で続けられるとのことなので、楽しみにしています。村井さんは、赤い鳥「翼をください」をはじめとした数多くの名曲の作曲・編曲で多くの方に知られる一方、アルファレコードの設立者として荒井由実やYMOを世に送り出すなど、稀代のビジネスマンとしての顔もお持ちです。もともと、音楽のビジネス的な側面にも関心を持っていたのですか?

村井:僕は最初、1969年にフランスのバークレイ音楽出版社からフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の出版権利を得たところから、音楽著作権の仕事を始めました。そのバークレイ音楽出版社やバークレイ・レコードを設立したエディ・バークレイという人はピアニストでありながら、レコード屋をやったり、オーケストラをやったりしながら、会社もやっていたんですね。作曲もやっていました。バークレイ・レコードはクインシー・ジョーンズ、ミシェル・ルグラン、ジャック・ブレル、シャルル・アズナヴールなど、錚々たるアーティストの作品を世に送り出して、一時はフランス最大のレコード会社になりました。そういうのを見ていたから、音楽をやることとレコード会社をやることが、それほど違うことではないと思っていたんです。普通、会社というのは利益を出すことが第一目的になっていますが、僕の場合は自分が面白いと思う音楽を世に出したくてやっていた。そのためには利益を出さなければいけないという点では結局一緒ですがね。

ーー本書では、アトランティック・レコードの創業者であるアーメット・アーティガンとの交流についても書かれていて、大きな読みどころとなっていますね。彼もまたそうした両面を持った方だったのでしょうか?

村井:アーメットの場合はまず、自分自身が熱心な音楽ファン/音楽マニアですね。お父さんが駐米トルコ大使で、大使館でデューク・エリントンなどの有名なジャズミュージシャンを集めてパーティーや演奏会をしていたそうです。そういう趣味が昂じてレコード会社をはじめたのです。作曲家としてもレイ・チャールズに「メスアラウンド」という曲を書いています。1970年頃、僕が25歳の時に知り合って、彼はその時は47歳でした。年齢は離れていましたが、アーティガン兄弟(兄はネスヒ・アーティガン、元ワーナー・インターナショナル会長)が作ってきたレコードには、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やチャーリー・ミンガスなどの素晴らしい作品がたくさんあって、僕はそういうレコードを子供の頃から聴いてたから話が通じたんです。それで付き合いが深くなっていきました。

ーー本書の後半では、アーメット氏を介してフィル・スペクターと一緒に食事したエピソードもさらりと紹介されていました。偉大なプロデューサーですが、彼はどんな方でしたか。

村井:うーん、ちょっと問題のある人でしたね。普段はとてもおとなしい人なのですがドラッグをやると人が変わって狂暴になる。歳を重ねるほどに酷くなっていって、とても本には書けないようなこともありました。心配したアーメットが僕に、「もう二度とフィルを食事に呼ばないようにする」と電話をしてきました。

ーー本当に様々な交流があったんですね。ヘンリー・キッシンジャー元国務長官ともお会いしたとか。

村井:そうですね。キッシンジャーさんはアーメットと大親友でしたから。それでいろいろなところでお見かけしましたが、ちゃんとお話したのは一度きりです。

 キッシンジャーさんはソニー創業者の盛田昭夫さんと交流があって、盛田さんに日本の若者と話をしてみたいと言ったそうです。それで盛田さんが東京のご自宅に僕を含めた5〜6人の若い日本人を呼び歓談したことがあったのです。“あなたはどんな仕事をしているのですか?”と聞かれたので、“アーメットと同じ仕事です”と言ったら大変興味を持たれていました。ちょうどその頃、YMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)が出たばかりだったので、後日、彼の事務所にレコードを送ったら、ちゃんとお礼状が届きました。

 キッシンジャーさんはNYのアッパー・イーストサイドにあるカーライルホテルというところに住んでいました。アーメットのタウンハウスも近所にありました。そのあたりに住んでいるジェットセッターと呼ばれる裕福な人たちは、年中ヨーロッパとアメリカを行き来していました。ジェット機に乗って飛び回ってるからジェットセッターと呼ばれたのです。ロナルド・レーガン大統領夫人のナンシー・レーガンさんの大親友ジェリー・ジプキンや、後にエージェントとしてニクソン大統領のインタビューを仕切ったアーヴィング・ラザールなどが中心的な人物でした。アーメットがローリング・ストーンズと契約してからは、ストーンズのコンサートの楽屋はこういったジェットセッター(キッシンジャーさんを含め)の社交場になりました。僕はパリでストーンズの楽屋に行ったことがありますが、演奏より楽屋のパーティーのほうが面白かったです。

ーーこの本の交友録でいうと、駐仏大使を務めた古垣鐵郎(てつろう)さんなどは50歳近く年上でしたよね。それくらい年が離れた方から学んだこととは。

村井:僕は25歳の時、70歳の古垣さんと会いました。ですから45歳年上ですね。古垣さんは学生のような天真爛漫さをお持ちで、毒舌家でユーモアがあり僕の大好きな人でした。それでお亡くなりになる1987年まで17年間ずっとお付き合いさせていただきました。

 鹿児島に生まれた古垣鐵郎さんは、1923年にフランスのリヨン大学法学部を卒業し、すぐにジュネーヴの国際連盟に就職しました。その後、朝日新聞社欧州局長、NHK会長、駐仏日本大使などを務めました。

 戦前、戦中、戦後にかけて世界情勢をよく見てこられた方で、自分は生涯ジャーナリストだとおっしゃっていました。シャルル・ドゴール大統領にもっとも信頼された日本人だったと思います。王位を捨ててアメリカ人女性のウォリス・シンプソンと結婚したウィンザー公と親しく付き合っていらしたようで、そのお付き合いも戦前のロンドンから始まり、戦後ウィンザー公が亡くなるまで続いていたようです。学んだことはたくさんありますが、どんな国のどんな人々とも等しく接しておられる姿を見て自分もそうしなければと思いました。

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