『村井邦彦のLA日記』インタビュー
村井邦彦が語る、LA交遊録と若き音楽家への伝言「西洋音楽をよく知る必要がある」
「ユーミンのレコードを作っていた頃に録音の技術革新があった」
ーー村井さんは大きな時代の移り変わりを体験されている世代です。70年代から80年代にかけては特に過去から脱却しようという風潮が強かったと思うのですが、村井さんは新しいものを生み出しつつも、過去の良きものを継承していこうという意思も同時に抱いていたように感じました。
村井:それが僕の一番やりたいことです。僕は、全部がちゃんと続いているんだよって、みんなに伝えてまわっています。例えば、戦前はただただ暗い時代だった、民主主義はアメリカから教えられたものだと考えている人がいたりするけれど、とんでもない。大正デモクラシーと呼ばれる時代があったのです。そうした文化的、精神的な潮流は一貫して流れています。音楽でも同じことが言えて、僕がやっていた慶應義塾大学ライトミュージックソサイェティは、戦後間もない1946年からスタートしているんです。それはつまり、戦前の1910年代から脈々と日本のジャズの歴史があったということで、一時は弾圧されていたけれど、時代が変わって地下水が表面に出てくるように世に出てきたのです。
ーー戦後になって、急にジャズが出てきたわけではない、ということですね。70年代には村井さんは荒井由実などを世に送り出し、ニューミュージックと後に呼ばれる新しいポピュラー音楽の流れを築き上げますが、その時もやはり過去の良き部分を継承していこうとの意識があったのでしょうか?
村井:ユーミンも過去の良いものが好きです。ユーミンのレコードは彼女のものだから、彼女が何を感じてどう表現しようとしているのかを周りからサポートしてあげるような感じでした。細野晴臣みたいな良いミュージシャンをくっつけてあげたり、良い録音設備を整えてあげたり。
ーーアルファレコードの専用スタジオ「スタジオA」ですね。アルバム『ひこうき雲』(1973年)を聴くと、当時のミュージシャンたちが作り上げた空気が生々しく感じられて、今なお古びない作品だと感じます。
村井:ちょうどその頃、録音の技術革新があったんです。簡単にいうと、ステレオ録音から多重録音に変わった。仕組としては現在のプロ・ツールスも一緒です。だから今聴いても古くならないんです。僕は外国をぐるぐる周っていたから、向こうの人たちがどんどん多重録音に切り替えていくのを見ていて、これは日本でもやらなければダメだって、いち早く取り入れたんです。
ーー村井さんは、その後も多くの名盤を世に送り出していますが、一方で制作に対して厳しい姿勢で臨み、一定の水準をクリアしていない作品は決してリリースしなかったと伝えられています。当時、どのような見極めをしていたのかを教えてください。
村井:まず、音が狂っているとか、問題外のものはもちろんダメです。あと、レコードは作るのもお金がかかるけれど、マーケティングにもお金がかかるんですね。だから、レコードとして形になっていたとしても、どうやったってマーケットに乗せるのが難しい作品の場合、出さないほうが損失が小さいという考え方もあるわけです。ユーミンのレコードを作っていた頃はたった30人くらいの小さな会社でしたから、そういう判断が必要な時もありました。