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村上春樹はなぜザ・ビーチ・ボーイズを好む? 『村上春樹の100曲』編者 栗原裕一郎に聞く

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 村上春樹の小説に登場する音楽を取り上げて、それが作品あるいは作者にとってどんな意味合いがあるのかを読み解く異例のディスクガイド『村上春樹の100曲』(立東舎)が好評だ。村上春樹は、本日10月21日放送のラジオ番組『村上RADIO』(TOKYO FM)でDJを務めるなどしており、昨今ではその音楽観にも改めて注目が集まっている。本書のレビュアーの一人であり、編者を務めた栗原裕一郎氏に、村上春樹作品を音楽で読み解くことでどんな理解が得られるのかを、彼の音楽の趣味嗜好とともに論じてもらった。(編集部)

音楽を軸に考えないと見えてこない視点

『村上春樹の100曲』(立東舎)

ーー村上春樹の小説との出会いと、本書の狙いを教えてください。

栗原:最初は普通に一読者として、ですね。高校生くらいの頃、『羊をめぐる冒険』を最初に読んだんだったかなあ。この仕事をするようになってからは、春樹が新作を出すたびに毎回、主要作をぜんぶ読み返さないといけないような状況です(笑)。春樹の新作が出るとなると毎度お祭り騒ぎで、書評やらなんやら書けそうな人間には総動員がかかるので、文学系の仕事をする人間にとってはもう、好むと好まざるとに関わらず読まねばならない、必読書に近い位置付けじゃないですかね。小説なんて一度読んだらそれきりというのがほとんどですけど、春樹はそういう理由もあって、一番読み込んだ日本人作家ではあります。

 ネットの感想などを見ると、「やれやれ」みたいな言い回しや、懲りすぎて妙な塩梅の比喩が揶揄されていることが多いんですけど、さすがにそれほど単純な作家ではない。反対に、無闇にややこしい読み方をしている人というのも多くて、「村上春樹論」が溢れ返ってもいます。村上春樹だけを論じた単行本というのがたぶん150冊くらいあって、本になっていない評論や研究論文なんかも腐るほどある。ファンは誰も読まない、ファン以外も誰も読まない、つまり誰も読んでいないような春樹論がひたすら堆積しているというものすごい状況が一方にはあります。村上春樹をめぐってはそういう両極端な状態になっているので、その中間を行くような、ファンに親しみやすいかたちで新しい視点を提示してみたいという狙いはありました。

ーー一般的な読者と春樹論者たちの間には、その解釈に深い溝がある、と。

栗原:まあ、春樹ファンは春樹論は読まないでしょうね。村上春樹本人が文芸評論の類を嫌っているというのもあるので。

 初期の村上春樹に対する解釈を決定付けたものに川本三郎や三浦雅士の評論があり、それを汲んだ評価の系譜はあるんですが、やっぱ文学業界の中のものであって、一般的な読者は知らないだろうし、読者の抱いている春樹のイメージともたぶんずれている。川本、三浦以降は、ニューアカ系の文芸評論家や思想家が徒党を組み総掛かりで春樹を罵倒していたという流れですね。最近話題の渡部直己は春樹ディスの急先鋒でした。でも、ある界隈で支配的になっているからといって、その見方が正しいとは限らないじゃないですか。

 豊崎由美さんとの共著『石原慎太郎を読んでみた』(2013年)に書いたんですが、石原慎太郎は嫌な奴だというイメージから「どうせ小説もロクでもないんだろう」という予断が生まれて、その予断にもとづいてみんな何となく批判している状況というのがありますよね。「読んでないけどダメに決まっている」と言って許される空気ができてしまっている。でも実際に読んでみると、漠然と共有されているイメージとは全然違う小説を書いていることがわかったり、これは戦後文学史的に見ても優れているんじゃないかという小説が少なからずあることがわかったりする。そういうふうに、空気や予断で凝り固まって、評価や判断が動かしがたくなっている事柄について、データやロジックを駆使して引っ繰り返すことにどうやら自分は興味があるみたいです。

 春樹も、ニューアカ勢がぶいぶい言わせていた80年代後半から90年代は、安心して馬鹿にできる作家でした。文学業界では。

ーーこの本の場合だと、音楽を軸にして読むと、例えば党派性などを軸として読んでいては気付かない春樹像が浮かび上がってきます。

栗原:本書のキーワードの一つに「60年代的価値観」というのがありますが、これは春樹本人がとあるインタビューで使っていた言葉で、ボブ・ディランとかドアーズ、ザ・ビーチ・ボーイズといった春樹のアイドル的ミュージシャンたちによって60年代に提示された価値観のことです。『風の歌を聴け』(1979年)から『羊をめぐる冒険』(1982年)までの初期三部作では、〈僕〉がこの60年代的価値観でもって70年代をどう生き延びたかが描かれている。続く『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)で舞台が80年代に移りますが、60年代的価値観がほぼ機能しなくなった時代という認識で、そういう時代を〈僕〉がいかに生き延びていくかを描いている。言い換えると、初期三部作というのは60年代的価値観が摩耗していくプロセスを描いた物語で、『ダンス・ダンス・ダンス』というのは60年代的価値観が潰えたあとの物語であるという対比になっています。これもほぼ春樹自身が言っていることです。

 この「60年代的価値観」という主題は音楽を軸に考えないと見えてこない視点で、実際、文芸評論でこれを問題にしているものは見たことがないです。

 文芸評論ではこの主題はもっぱら学生運動と絡めて論じられてきた部分で、時代意識として似たところがないとは言わないけれど、同じとは言い難いわけですよね。春樹本人も全共闘世代で、春樹を好んで論じてきた人たちも全共闘世代だから、どうしても1968年という問題と関連付けられてしまっていました。「鼠は連合赤軍の死者」とか(笑)。そこで、『風の歌を聴け』にザ・ビーチ・ボーイズが登場するという異様さが意味を持ってくるわけです。

ーー本書は、<80年代以降の音楽~「60年代的価値観」の消滅>、<ロック~手の届かない場所へ>、<ポップス~失われた未来を哀悼する>、<クラシック~異界への前触れ>、<ジャズ~音が響くと何かが起こる>の5章から成り立っています。こうした分類にした理由は?

栗原:小説に出てくる曲を拾い上げながら、あらためて音楽に注目して読んでいくと、どうもジャンルごとに機能というか役割が違っているらしいことがわかってきました。ザ・ビーチ・ボーイズやボブ・ディラン、ドアーズといったポップス、ロックはいま言ったように60年代的価値観を表している。ジャズに関しては、もともとジャズ喫茶のオヤジをやっていた人なのでディテール重視でマニアックなのは当然なんですけど、こだわり方というかこだわっている方向に何か独特なところがある。ポップスとロックに関してはちょっと分け難いところもあったんだけれど、たとえばナット・キング・コールあたり、どうもジャズというよりボビー・ダーリンなんかに近いポップスとして春樹的には分類されているみたいな印象を受けるので念のために分けておこうかという感じですね。クラシックなどはあからさまに違う使い方で、異世界への入り口になっていることが多い。「80年代以降」という括りは、「60年代的価値観」を軸にすると必然的に出てくるものなので、ジャンルといっては語弊があるんだけど設定しました。

ーーMTVで一世を風靡したミュージシャンーー例えばマイケル・ジャクソンに対する評価などは、一般的なものとは明らかに違いますね。

栗原:なんでそんなに冷たいの? っていう感じですよね。まあ、デュラン・デュランはわかるんだけれど(笑)。

ーー最近のアーティストも時々出てきます。レディオヘッドだったり、ゴリラズだったり。この辺りはどう捉えました?

栗原:『海辺のカフカ』にレディオヘッドが出てくるのはわかるんですよ。15歳の少年カフカくんが聴くのにこれほどふさわしい音楽はないというくらいなので。でも、同時にプリンスを聴いているのはよくわからない(笑)。図書館から借りてランダムに聴いているという設定だけど、それにしてもプリンス聴くかなあという。この“プリンス問題”はけっこう、我々の中でも大きな疑問で、春樹の選曲にブレを感じるところです。ゴリラズはまあ良いとしても、ブラック・アイド・ピーズは違うんじゃないかとか(笑)。若干、時代とのズレを感じるところですね。最近だと、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『騎士団長殺し』でも、主人公の年齢設定が若くなっているのに、音楽をはじめとした趣味嗜好は旧来の春樹のままなので、時空が捻れたみたいになっちゃっている。『騎士団長殺し』で主人公の〈私〉が「『ザ・リバー』(ブルース・スプリングスティーン)はLPで聴くべきだ」みたいなことを言うじゃないですか。時代設定に照らすと〈私〉は当時10歳くらいだったはずで、「ねえよ」って突っ込んでしまいました。

藤井勉、大和田俊之、鈴木淳史、大谷能生、それぞれの個性

ーー本書では、栗原さんを含めて5人のレビュアーが参加しています。各人の書き手としての個性はどんなところにありますか?

栗原:ロック担当の藤井勉さんは、まえがきに書いたように、豊崎由美さんが、匿名で提出した書評で得点を競い「書評王」を決めるというシステムの講座を主宰しているんですが、僕が初めてゲストに呼ばれたときに「書評王」を獲った人です。非常にうまい書き手で、ものの見方が微に入り細を穿つというか、「よくそんなところに気が回るな」と感心するほど読むときと書くときの気配りが細かい。今回の本だと、ロバート・プラントがジミー・ペイジらと組んだユニット、ハニー・ドリッパーズのアルバム『ヴォリューム・ワン』(1984年)なんてよく引っ張り出してきたなと感心しました。『ねじまき鳥クロニクル』(1994年~1995年)の原型となった短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(1986年/『パン屋再襲撃』収録)にあった、「ラジオはロバート・プラントの新しいLPを特集していた」という一節から、このレコードを探り出してきたんですね。作業が始まってまず各人に選曲リストを出してもらったんですが、「ん? ハニー・ドリッパーズ? なんだっけそれ?」と首を傾げてしまった。僕は完全に忘れていました(笑)。

ーーそれはすごい。本書のレビューでは、『ヴォリューム・ワン』に対する〈僕〉の冷めた視点から、この時期から春樹がロック的な価値観を必要としなくなってきたことに言及していて、納得感のある文芸批評にもなっていました。では、ポップス担当の大和田俊之さんは?

栗原:大和田さんはもともとアメリカ文学者で、って言うか今もアメリカ文学者なんですけど(笑)、ハーマン・メルヴィルが専門です。それがだんだんと音楽に軸足が移っていって、『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(2011年)や『文化系のためのヒップホップ入門』(2011年/長谷川町蔵との共著)あたりからもう完全に音楽の人って感じになってしまった。

 大和田さんのパートの見所は、やはりザ・ビーチ・ボーイズについての指摘でしょう。春樹作品においてザ・ビーチ・ボーイズは死の影を伴っていると指摘したのは大和田さんが初めてじゃないですか。

 『風の歌を聴け』が発表された頃はもう誰もザ・ビーチ・ボーイズなんて聴いていなかった。それはアメリカでも事情は同じだったようです。88年にブライアン・ウィルソンが奇跡の復活を遂げて、日本では90年代に入ってから渋谷系の文脈で再評価の動きが出てきます。アメリカでも同じような感じでブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズ再評価の流れが出てくるんだけど、春樹がアメリカで評価され始めたのもまさにこのタイミングなんですね。こういう、日米を同時に視野に入れた大局的な見方ができるところが大和田さんの強みです。ブライアン・ウィルソンが見ていた理想郷と、春樹の60年代的価値観には強い関係があるわけだから、単なる偶然ではないわけです。

ーー鈴木淳史さんは、『クラシック批評こてんぱん』(2001年)などで知られる方ですね。

栗原:鈴木さんは芸のある文筆家で、クラシック評論が煮詰まっていた中、90年代後半くらいから、片山杜秀さんや許光俊さんと一緒にクラシック評論のニューウェーブみたいなことを始めて世に出てきた人です。『クラシック批評こてんぱん』もそうですけれど、クラシック評論や評論家を評論したり、世間では顧みられない演奏に日を当てたり、「萌え」でクラシックを語ったり、一風変わったスタイルのクラシック評論を開拓してきた人ですね。今回、クラシックのパートを依頼するなら鈴木さんしかいない、というか話が通じそうなのは鈴木さんくらいかなあと思っていました。春樹作品ではクラシックが異界への入り口になっていると指摘している人は実は他にもいて、クラシック評論の喜多尾道冬さんも『レコード芸術』で『海辺のカフカ』について「シューベルトが異界への入り口になっている」と書いていました。こういう指摘は文芸評論のほうからは出てこない類のものだと思います。

ーーそして、大谷能生さん。

栗原:大谷さんはね、非常に細かい方なんですけれど、細かくディテールを押さえた上で、大胆というか大雑把なことを言ったりする(笑)。仮説というのとはまたちょっと違うんだけど……、見立てというのかな、そこが良いですね。それと、春樹の読者じゃなかったというのも結果的に良かった。文芸の世界に身を置いていると、春樹に限らず、作家や作品の見方に大局みたいなものがどうしてもあって、そこから自由な読み方ができなくなってしまう。たとえばニューアカの連中が春樹をディスっていた90年代には、同調するにしても反発するにしても、その文脈と無関係に読むのはなかなか難しいことでした。

 大谷さんはそうした文脈とは無縁で自由だから、考えもしなかったところに反応するんですね。『海辺のカフカ』が架空の曲のタイトルだと言われて「適当につくるんじゃねえよ!」と怒り狂ったり(笑)。音楽に関してはディテールをしっかり押さえるという作業をやってきた人がここで架空の音楽を使ってはダメだろう、ジャズ喫茶店主のモラルとしてありえないというわけです。そこでジャズ喫茶のオヤジのモラルが出るのかと笑ったんだけど、言われてみれば筋の通った批判ではあって、でも普通そんなこと思わないし、言ってる人も見たことない(笑)。そういう感じで意表を突く指摘が多くて、良いアクセントになってるじゃないかと思います。

      

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