音楽シーンの“90年代復活”は何を意味する? TAKUYA、イエモンらを例にレジーが考える

「20年ひと昔」の再評価が意味するもの

 スピッツ『醒めない』、サニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』など、2016年の夏には90年代から活躍するグループが今の時代の息吹を感じながら自らのキャリアを更新していくような素晴らしい作品のリリースが続いた。ただ、個人的にそれよりも気になっているのが、「90年代そのものの音」を2016年に鳴らそうとする取り組みの数々である。

 TAKUYAがジュディマリの曲を多数演奏したのは「セルフカバー」と呼ぶべきものだと思うが、今年は「セルフカバー」ではなく「再現」と表現される企画がいくつか行われている。GRAPEVINEとTRICERATOPSはそれぞれのメジャーでのファーストアルバム(ともにくるり「東京」と同じ1998年リリース)を曲順通りに演奏するライブを8月末から全国ツアーの形で行っており、また4月には90年代におけるメジャー感のあるポップスの金字塔ともいうべきMy Little Lover『evergreen』(1995年)の再現ライブが行われた。

 それらの取り組みとは別に、当時活躍していたバンドが復活する事例もある。90年代をトップランナーとして走り切って15年前の2001年に活動休止、12年前の2004年に解散したTHE YELLOW MONKEYは解散年と同じ申年である今年になって再集結。全国のアリーナツアーを完遂し、ROCK IN JAPAN FESTIVALやSUMMER SONICといった大型フェスへの出演も果たした。「90年代からの復活」という意味では、映画『スワロウテイル』と連動して「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」を大ヒットさせたYEN TOWN BANDもこれにあたるかもしれない。昨年から活動を再開させていたが、今年はフルアルバム『diverse journey』をリリース。そこには97年にメジャーデビューしたDragon AshのKjをフィーチャーした「my town」も収録されている。

 90年代に鳴っていた音楽が、今のシーンの至るところで「復活」している。ここに何かしらの意味付けをすることは可能だろうか? まずあらかじめ考えておきたいのが、単純に自分の「世代」の問題、昔聴いていた音楽に耳がいっているだけではないかということである。おそらくこの指摘自体を否定することはできない。音楽が個人的な思い出と不可分なものである以上、「昔聴いていた音楽」は何とも言えない心地よさを携えながらいろいろな感情と一緒に耳に飛び込んでくる。それはある意味「ちょうどよい湯加減のお風呂に浸かっているような感覚」であり、何のストレスもない音楽体験に耳を持っていかれがちになるのは、ある意味では仕方のないことのように思える。

 ここではそのような個人的な事情を差し引いたうえで、もう少しマクロな視点から考えてみたい。最近は音楽マーケット全体で「90年代ブーム」とも呼ぶべき状況が出来上がっているが、インディーシーンでは数年前からこの手の流れは顕在化しつつあった。代表的な作品が、2012年に注目を集めたtofubeatsの「水星」。この曲の下敷きになっているのは、テイ・トウワがプロデュースして1996年にリリースされたKOJI1200(今田耕司)の「ブロウ ヤ マインド」である。tofubeatsは自身の活動において「ブックオフの低価格棚で売られている90年代のCD」を「宝の山」と読み替えて、あの時代の音楽が備えていた「キャッチーさと切なさが同居するメロディ(当時の音楽が「日本全国で聴かれる、もしくはカラオケで歌われる」ことを前提としていたからこそまとっていた要素である)」「メロディが際立つ開放感を担保しながら随所に小技や冒険が施されたアレンジ」を自身のアウトプットに忍ばせていった。そんな彼のスタンスは、森高千里や藤井隆といった90年代におけるポップアイコンをフロントに立てながらも海外のダンスミュージックの進化ともシンクロするという活動スタイルによく表れている。また、「水星」も震源地の一つとなったここ最近の「シティポップ」と呼ばれるシーンにおいても、「渋谷系」とのリンケージが指摘されるなど90年代の音楽シーンの影響が見え隠れする部分がある。

 このような一連の流れから読み取れるのは、「90年代から20年程度時間が経ったことで、その時代の音楽が参照に耐えうる歴史性を持つようになった」ということではないだろうか。「少し前の音楽」はともすれば「時代遅れ」として処理されるが、20年経てば「一つの歴史」として認識されるようになる。そしてこの考え方は、前述した「再現ライブ」や「90年代活動組の復活」にも共通しているように思える。もちろん先ほどあげたライブ企画やそれぞれのアーティストの動きには個別の事情があり、明確な関連性はないはずである。ただ、近しいテーマに沿ったアプローチが短いタイミングで連続する際には、何かしらの「大きな流れ」が知らぬ間に影響を及ぼしていることが多い。そして、ここでの「大きな流れ」こそが<メガヒットの時代を「商業主義的な時代」ではなく「産業として元気な中で自由に音楽を作れた時代」としてポジティブに捉え直す>というアンダーグラウンドな場所から少しずつ広がりを見せていたムードであり、そんな空気が様々なアーティストを「90年代」という時代の再解釈に向かわせている側面もあるのではないだろうか。

 「2016年の約20年前、90年代の音楽」という構造を考えたときに比較したいのが、「90年代の約20年前、70年前後の音楽」である。90年代にも、約20年前の音楽を巡るリバイバルの流れは存在した。ただ、当時は野島伸司が脚本を務めるドラマの主題歌としてヒットしたカーペンターズやサイモン&ガーファンクルなどのクラシックな洋楽アーティストがリバイバルの対象となることが多く、「異なる文化圏の音楽を持ってきた」という印象が強い。対して、昨今の90年代の音楽への目線の向け方は、「(何か別のものを持ち出してくるというよりは)今では一般的な文化となっているJポップのルーツ、創生期を改めて甦らせる」というような構図になっている。「20年遡った先にあるものが、今現在のカルチャーとダイレクトにつながっている」というところに、90年代・00年代・10年代と日本のポップミュージックが脈々と積み上げてきた歴史の重みを感じる。

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