音楽における「サブカル」とは? 円堂都司昭が戦後カルチャー史から紐解く
――音楽に話を絞ると、90年代には“渋谷系”ムーブメントも訪れますが、あれは“サブカルチャー”とみなすべきでしょうか。
「90年代はじめに“オタク”は流行語になり、その後、普通の言葉になっていきましたが、最初は、どんなジャンルのコレクター、マニアも“オタク”と呼んでいました。だから、過去の多くの音楽を参照し、コレクター気質のある渋谷系も“オタク”と形容されたことがありましたが、今ではあまりいわないでしょう。マンガ、アニメ、ゲームなど“オタク”は二次元中心というイメージが広まりましたから。
一方、音楽ジャンルを相対的に見て、様々な要素を批評的にピックアップし、組みあわせ、従来とは違う価値を与えるのは“サブカル”的ですよね。その意味で、渋谷系は“サブカル”的だった。でも、様々な要素をDJ的に組みあわせる手法が“サブカル”だとしたら、ヒップホップはなに? という話になります。音はそんな風に作られていても、そこでラップしている人は、マッチョ的だったりヤンキー的だったり、例外はあるにしても“サブカル”的でないほうが多い。“サブカル”かどうかは、クリエイターやアーティストの自意識、ジャンル、手法、批評など、いろいろなアングルで定義づけできるから、どこにポイントをおくかで互いの話がすれ違ってしまう」
――“サブカル”の手法についてですが、サンプリング的なもの以外にもあれば教えてください。
「すぐに思い浮かぶのは、パロディ、冗談ですかね。わかりやすいのは、実在のコメディアンをネタにした筋肉少女帯の『高木ブー伝説』とか。このバンドや、電気グルーヴの前身バンドにあたる人生が在籍した80年代のナゴムレコードというレーベルには、“サブカル”的な笑いがありました。最近だとアーバンギャルドなどは、その影響を受け継いだバンドです」
――音楽カルチャー内での“サブカル”の定義は難しいですね。ハッキリとした線引きのようなものは存在するのでしょうか。
「線引きはできないですけれど、いっておきたいのは流通の問題です。60~70年代の“アングラ・フォーク”というジャンルには、会員制でレコードを通信販売する文化がありました。つまり、既存のカルチャーではないカルチャーを打ち出そうとした場合、既存の流通とはべつのルートを作ろうという発想が出てくる。そうした発想も含めて“サブカル”と定義できるのではないでしょうか。マンガに関しては、書店販売とはべつにコミケという場が作られた。先に触れたナゴムは、80年代のインディーズ・ロック・ブームにおける代表的なレーベルでした。70年代にニューヨークやロンドンで起こったパンク・ムーヴメントは、日本に“Do It Yourself”の考えかたを伝えた。アメリカでは90年代前半にオルタナティブ・ロックの隆盛がありましたが、オルタナティヴには“もう一つの選択”という意味があったし、インディーズ主義の傾向があった。日本の音楽の自主制作、自主流通にも、海外のパンクやオルタナの影響はありました」
――ゼロ年代以降、インターネットの登場でどう変わったのでしょう。
「CD売り上げのピークは1997年~1998年。それ以降はインターネットが普及し、DTMも容易になって一般化していきました。また、YoutubeやSpotifyなど、音楽を支えるインフラが整ってきた。日本では、ニコニコ動画という音楽の発表場所ができたことが大きかった。ネットは、先に話した“べつの流通”、“もう一つの選択”として力を強め、趣味の分散はさらに進んでいます。
もともと日本には、西洋における芸術みたいな、カッチリとした文化的体系がありません。とはいえ、90年代までは紅白歌合戦、レコード大賞、オリコンチャートなどが、これがメジャーであると、権威づけを行う指標になっていました。60年代には公共放送であるNHKの紅白歌合戦には、長髪の不良っぽいグループサウンズは出さないという方針がみられました。そういった権威づけが無くなり、指標が弱体化したわけですから、“サブカルチャー”と“メインカルチャー”の区別は消失したようなものだし、だからこそ“サブカルチャー”の境界線も見えにくくなった。しかし、人はそれぞれの価値観を持っていて、他の価値観に違和感を覚えたり、ツッコミを入れたがるような気質はなくならない。だから、手法や批評としての“サブカルチャー”は常に語り続けられる……という状況ではないでしょうか」
ゼロ年代を経由したことにより、意味内容が大きく変動している『サブカルチャー』あるいは『サブカル』という単語。議論の出発点として、その歴史的変遷を知るのは一定の意味があるのではないだろうか。
(文=松下博夫)