栗原裕一郎の音楽本レビュー 第3回:『噂のメロディ・メイカー』
ワム!には日本人ゴーストライターがいた? 西寺郷太が「ノンフィクション風小説」で描く真実とは
西寺はまず、自分の仮説――ワム!の少なくとも2曲はジョージ・マイケルの書いたものではないのではないか――の検証に着手する。
資料をひっくり返し、目を皿にして見つけ出した手掛かりを頼りに当時の関係者にコンタクトを取り話を聞く。調査の方法は極めてオーソドックスなのだが、面白いのは、調べを進めるにつれ判明していく事実が、ワム!の、そして80年代洋楽の歴史の表裏に空いた穴を埋めるピースに、結果的になっていくことだ。
ワム!――ジョージ・マイケル、そしてアンドリュー・リッジリーの生い立ちや音楽的な軌跡と功績、楽曲についての解説と分析、彼らを巡る当時の状況および評価などについてももちろん詳細に記されているのだけれど、そうした事実と事実を繋ぐ、存在してはいたが見えていなかった因果の糸が次々浮かび上がってくるというか。
片やナルショーを探す旅は、バンドメンバーだった人々を辿り、ポプコン関係者を探し当てるという具合に進むのだが、それは取りも直さず、80年前後のアマチュア・ミュージシャンを取り巻いていた状況を素描することにもなる。
それらを語る「僕」すなわち西寺郷太は、絶えず動き回り、人々と交流し、来し方を振り返り、未来の抱負を描き、ワム!が過小評価されていることに憤り、ポップ・ミュージックを正当に評価付け後世に伝える使命を語り、音楽家および音楽研究家としての自身の活動の報告をする。その側面だけに注目すれば、この「小説」は、「僕」が一種の自分探しをするロードノベルのように見えてきたりもするだろう。そう、まさに『深夜特急』のような。
西寺郷太にしか書きえなかった物語
整理すればこういうことだ。ポップ・ミュージックの歴史に隠された秘密を究明する「小説」であると同時に、ワム!の再評価を促すことを企む評伝でもあるこの本は、「僕」が自らを求める物語として統べられているのである、と。
僥倖や思いがけない偶然に遭遇するたびに、西寺は、自分が何かに導かれているようだと書く。たしかに、発端である噂を知ったことからして、飛び切りの偶然であるように見えなくない。
だが、それらは本当は偶然や僥倖などではなくて、どれも西寺の情熱や行動が周囲に波及して、その結果引き寄せたものだったと捉えるべきであるように思われる(オカルト的な話ではなくて)。
「その人にしか書けない物語」という言い回しがあるけれど、本書はまさに、西寺郷太という個人の執念が、今このタイミングで結実した、他の誰にも書きえなかった物語なのだ。
で、ナルショーとメロディーブローカーの件はどうなったのかって?
それは読んでのお楽しみというものでしょう(笑)。
■栗原裕一郎
評論家。文芸、音楽、芸能、経済学あたりで文筆活動を行う。『〈盗作〉の文学史』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『石原慎太郎を読んでみた』(豊崎由美氏との共著)。Twitter